米軍機搭乗員3人が殺害された石垣島事件の戦犯裁判は、1948年3月16日に判決を迎えた。結果は41人に絞首刑という過酷なものだった。1人目を斬首した特攻隊長、幕田稔大尉にも死刑が宣告され、死刑囚が集められている棟へ移された。そこで意気投合し、死刑執行までの約1年半を同室で過ごした陸軍大佐が、追悼文を残していた。「散りゆきし戦犯」。そこに記されていた幕田大尉の人柄はー。

◆同室だった九大生体解剖事件の佐藤大佐

判決を受ける佐藤吉直大佐(米国立公文書館所蔵 髙澤弘明氏提供)

BC級戦犯を裁いた横浜裁判の中で最も有名な事件は、「九大生体解剖事件」だ。福岡におかれた西部軍に集められていた米軍機搭乗員8人が、九州帝国大学医学部で生体実験されたというショッキングな事件は、当時の新聞にも大きな取り上げられ、世間の耳目を集めた。遠藤周作の小説「海と毒薬」の題材にもなった事件だ。その中心人物が、佐藤吉直大佐だった。

石垣島事件の判決から5ヶ月後、九大事件でも判決が宣告され、西部軍の横山勇司令官と参謀だった佐藤大佐、九大の医師3人に絞首刑が言い渡された。西部軍の事件としては、さらに30人以上を斬首した油山事件があり、横山、佐藤のほかに7人に絞首刑が出ている。死刑囚の棟では、かなりの人数を石垣島事件と西部軍事件の関係者が占めていたことになる。

九大生体解剖事件の法廷(米国立公文書館所蔵)

佐藤大佐は、幕田大尉の死刑が執行された3ヶ月後、1950年7月に終身刑に減刑された。石垣島事件の死刑はスガモプリズン最後の死刑執行であり、朝鮮戦争が始まったことでアメリカの死刑囚たちへの関心は急速に失われ、減刑されたのかもしれない。しかし、佐藤大佐は、正式にはスガモプリズンに最後まで留め置かれた18人のうちの一人として、1958年の出所式に参列している。

◆死刑囚が集められた「五棟」での思い出

「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」(1953年) 木曜日の夜 幕田稔君の憶い出 佐藤𠮷直の頁

巣鴨遺書編纂会が発行した「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」(1953年)という冊子がある。死刑が執行された戦犯たちへの追悼文が収められているが、その中に佐藤大佐が幕田大尉を偲んで書いた文があった。死刑囚が集められていたのはスガモプリズンの五棟で、「五棟」は死刑囚の棟という意味で使われていた。

幕田大尉は山形市出身。1950年4月7日に死刑執行、享年30だ。

◆散りゆきし戦犯

判決を受ける幕田大尉とみられる男性(米国立公文書館所蔵)

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より>
木曜日の夜 幕田稔君の憶い出 佐藤吉直

幕田海軍大尉という名前は「石垣島ケース」の裁判中に聞いたのが私にとって最初であった。石垣島ケースの中で一番軍人らしくしっかりとして居り、証人台での証言もすでに死を覚悟したもので、誠に堂々としていたということや、私の同郷人であることなどを聞いた。しかし裁判の時期が私と違っていたので、横浜ではとうとう会う機会がなかった。

◆同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より>
その後私が死刑の判決を受けて五棟の仲間入りをして間もなくだったが、昭和二十三年九月中頃の或る日幕田君が私の室に来てくれたので、初めて彼と会うことが出来た。仲々しっかりしているし、会談の中ににじみ出る彼の人柄がすっかり好きになって
「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」
「よかろう」
という簡単な会話の後で、二人は同居することに話を決めてしまった。以来、二十五年四月八日の幕田君最期の出発の日迄、二畳の室に寝ても起きても一緒に暮らして、深い縁に結ばれたのである。

◆あの好青年を惜しむ気持ちは変わらない

スガモプリズン

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より>
あれから二年半後の今日、年長の私が生き残って、こうして彼の憶い出を書くのは全く夢のような事で、あの当時は思っても見なかったのである。あの頃は彼の後から直ぐ行くものと、四月八日のその日から予期していたのに、金日成が暴れ出した結果かどうか、こうして書く事になったのであるが、あの好青年を惜しむ気持ちはいつまで経っても変わらない。

我々二人の一年有半の同居生活中、お互いに感情を害したり、感情に走ったような議論をしたことは一度もなかった。ウマが合うとでもいうのか、とにかく励まし合い慰め合い、気持ちのよい毎日を送った。或る時は信仰上の議論をしたり、或る時は歌を唄い合ったりしたのだが、その一つ一つが忘れ得ぬものとなっている。

◆やさしく慎重な特攻隊長

冬至堅太郎(油山事件)が日記に書いた独房図(自殺事案があった後、独房でなく二人部屋となった)

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より>
幕田君は剛直な性格の中に非常にやさしいところがあり、それに慎重な反面を持っていた。その為か、老成した人間という感じを受けて、彼が三十才前の青年だとはどうしても思えないところがあった。例えば、彼はがむしゃらと言われたそうだが、その彼の碁は実に慎重で、ペテンに引っかかるということが少なかった。上手といわれている連中も、これには手こずっていた。僕等の室は、訪問時間になるとお客さんが多く、それも碁とかマージャンの同好の士ではなく、話に来るのが大部分であったが、これは彼の人望を、そのやさしい人柄が人を惹きつけるのであった。

◆気にかけたのは母と弟妹

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)より>
いつも口にする事は母と弟妹の事であった。母の為には好い青年である、弟妹達の為には思いやりのある兄貴であった。彼の作歌に、

ズボン破れからとび出している膝小僧よ私は母が恋しくてならぬ

というのがあるが、これは彼のありのままの気持ちであったように思う。彼を失った家族の気持ちを考えると胸が痛くなる。


かたや石垣島、かたや福岡で戦犯事件に問われる現場に遭遇した二人は、同じ山形市出身というだけでなく、お互い意気投合し、幕田大尉が死刑執行前に五棟から連れ出されるまで、死刑囚としての日々を共にしていた。そして、ある日、幕田大尉は不思議な体験をした。死刑囚にとって意義ある境地。佐藤大佐はその様子を感慨深く記していたー。
(エピソード59に続く)

*本エピソードは第58話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3 「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6 「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11 「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26 「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27 「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28 「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31 「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32 「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33 「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34 「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35 「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37 「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39 「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40 「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41 「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42 「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43 「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44 「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46 「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの
#55 特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ
#56 証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」
#57 証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも
#58 獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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