終戦記念日の前日に辞めると発表した岸田総理。79年前の終戦直前に自決した陸軍大臣を気取ったわけではなかろうが唐突ではあった。とはいえその瞬間から関心は“次”に移った。今こそ問われるのが“求められるリーダー像”だ。戦前戦中はジャーナリスト。そして戦後は政治家となった一人の総理大臣に注目した。

「石橋湛山は・・・日本的な知識人といっていい」

昭和史研究の第一人者といわれ3年前に他界したジャーナリスト・半藤一利氏の名著のひとつに『戦う石橋湛山』がある。

日本が戦争への道を歩み始める昭和初期からジャーナリストとして敢然と軍部を批判し続けた石橋湛山。戦後政治家となり内閣総理大臣となるが、この本では軍部と対立する石橋湛山の言論人としての姿を戦争への傾倒を煽りに煽った大新聞と対比して描いた。

亡くなった半藤氏と親交が深く共に昭和史研究を続けてきた作家・保阪正康氏に、いま日本に求められるリーダーとは?…と聞いたところ、この石橋湛山の名を挙げた。

作家・昭和史研究家 保阪正康氏
「石橋湛山を見る時、二つの視点が必要です。一つは『戦前は言論人、戦後は政治家』という視点。もうひとつは…。彼はお寺の息子です。それから早稲田で哲学を学ぶんですが、その時の先生が田中王堂というんです。この人、実はアメリカに留学していてジョン・デューイの弟子なんです。デューイは“プラグマティズム(=実用主義の哲学)”を作った人物です。つまり、石橋湛山は(寺に生まれ育った)仏法の人間性とアメリカから持ち込まれたプラグマティックな実用主義=役立たなきゃだめだっていう現実的な哲学、考え方をミックスさせた日本的な知識人といっていい…」

「領土の拡大は反感を買うだけで日本は豊かにはならない」

仏の心を根底に持ち、実用主義を身につけた湛山は1907年(明治40年)早稲田大学を首席で卒業すると、東洋経済新報社に入社。ここから湛山の戦いが始まる。湛山の主張は一貫して日本が突き進んでいた“大日本主義”の否定だった…。

「我が国が大日本主義を棄つることは 何等の不利を我が国に醸さない 否ただに不利を醸さないのみならず 却って大なる利益を我に与えうるものなるを断言する」(社説「大日本主義の幻想」より)

戦前の日本は“大日本主義”の思想に基づき台湾、朝鮮を併合し領土拡大を推し進めていた。しかし湛山は領土の拡大は反感を買うだけで日本は豊かにはならないとして、産業主義・自由主義・個人主義による“小日本主義”を唱えた。

湛山は監視対象となりインクや紙の配給制限も受けながら屈することなく、とくに侵略目的の軍備拡張を批判し続けた。

「他国を侵略する目的でないとすれば 他国から侵略せらるる虞のない限り 我が国は軍備を整うる必要のない筈…」(社説「大日本主義の幻想」より)

作家・昭和史研究家 保阪正康氏
「(湛山は)明治44年終わりから言論を書き始めるんですが一貫して小日本主義。日本は大日本主義を取ってはいかんと…。それもただダメだと言うだけじゃなく、実際に朝鮮や台湾を植民地にして投資したお金と回収できるお金をきちんと計算して示して…、こういうことをやるのは経済的に得ではないんだって書く…。もうひとつは“市民”という概念を持ち込んでいる。女性の権利を保障すべきとか…。個人がきちんと自分でものを自立して考える…。だから「臣民」当時の天皇の子「赤子」という考えとは相対立していた…」

保阪氏はさらに湛山が軍備についていかに無駄かを説いた点も凄いが、批判だけでなく自分の勤めた新聞社のことも考えていたことがリーダーとして優れていたと話す。

作家・昭和史研究家 保阪正康氏
「彼は東洋経済新報社の経営にまで入りますから、会社を潰さないで、どうやって論を張るか苦労があった。言論だけで存在するわけではない。言論社会と関連を持つ中で存在する。だけど自分の意見は通す。そういう意味でも稀有な人だった…」

「こういう人を政治家として言論人として一つの模範とすべき」

戦後政界入りした石橋湛山。ここでも“言うべきことは言う姿勢”は変わっていなかった。

1946年4月第1次吉田内閣で大蔵大臣に就任した際には当時日本を占領統治していたGHQと対立。「終戦処理費(進駐軍経費)が日本経済を破綻に瀕せしめようとしている」と言って進駐軍経費を徹底的に調査し、ゴルフ場建設費などを無駄と指摘した。その結果、国家予算の3分の1相当とされていた進駐軍経費を2割削減させた。このためなのかこの翌年GHQによって、政治家になる前の過去の執筆記事に難癖をつけられ、4年間の公職追放までされることになった。

また党内でも湛山の姿勢は変わらず、“反吉田茂”を理由に自由党から2度の除名処分を受けている。1954年処分を受けた際は当時の池田隼人幹事長の「国民の名において除名する」との発言に対し湛山は言い放った…。

「ずいぶん生意気だね。泣いて馬謖を斬るなんて…。しまいには国民の名においてなんてね、思いあがった文句だと思う」

作家・昭和史研究家 保阪正康氏
「戦前、日本にはジャーナリストと評せる人がほとんどいなかった。無理もない、メディアが全部国家機関に監視されてましたから。その中で自分の意見を崩さなかった。その崩さなかった意見を戦後は政治家として実現しようとした。私は石橋湛山という人を調べていて、こういう人を政治家として言論人として一つの模範とすべき、という感じがします」

保阪氏が理想とすべきと言ったリーダー石橋湛山は、1956年12月鳩山一郎総理の後任として第55代内閣総理大臣となった。しかし、就任後間もなく脳梗塞に倒れ、在任わずか65日間で退陣。総理としては短命内閣の一例として語られる存在となった。

こうした「石橋湛山」的な気概は日本の政治に生き残っているのだろうか…。

毎日新聞社 前田浩智 主筆
「どっちを見ているかということなんだと思う。ある外交官と話しているとアメリカとうまくやれば日本の外交はうまく行くんだと、ものすごく単純なことを言うんです。局長クラスですよ。アメリカとやれば中国も日本を侮れないと思うんだと…日本には日本の歴史があり地政学的位置があり、1億人が暮らし、その人の権利もあり利益もある。それをどう守るのかはそれぞれ違うものがある。それをアメリカとうまくやればというのが日本の今の外交の中心軸と見えてしまう」

番組のニュース解説堤氏井はかつて“政治家の言葉”を出版するにあたって様々な政治家の演説、論文を読んだ中で石橋湛山の言葉は出色だったという…。

国際情報誌『フォーサイト』元編集長 堤信輔氏
「要点だけ言うと…『私が今から言うことは皆さんには聞こえが悪い、例えば増税とかね、そういうことも言うかもしれない、しかしそれは長い目で見て日本をいい方向にもっていくためであって…、自分のことを悪く思ってもいいが、そこだけは聞いてくれ』みたいに湛山は語りかけるわけです…」

確かに聞こえのいいことばかり言い、結局は自分に都合のいいことばかり考えている今の政治家とは真逆だ。奇しくも政権党と野党第一党のリーダーがまもなく決まる。この石橋湛山なる政治家が選ばれるのか否や、いるのかいないのか…。

(BS-TBS『報道1930』8月14日放送より)

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