この春完成した、福島県浪江町・赤宇木地区の記録誌「百年後の子孫(こども)たちへ」は、いま、地域を知る多くの人のもとへ届けられています。このうち、半世紀以上前の赤宇木を知る女性が、岡山県にいました。戦後、新たな産業に挑戦した、地域を支えた夫婦の姿に迫ります。

岡山県の北東部・奈義町。ここに住む田中香代子さんのもとにも、記録誌が届けられました。

田中香代子さん「田舎っていうものを全然知らなかったんです。だから、田舎ってどういうところだろうという、興味ですね」

田中香代子さん

記録誌を編集した赤宇木の元副区長、今野邦彦さん。避難先の桑折町から900キロ離れた岡山で、田中さんを訪ねたのには、わけがありました。

津島の酪農支えた獣医師夫妻

今野さんの父・孟信さんは、農業に不向きな赤宇木に、初めて酪農を導入しました。貴重な現金収入を得られる酪農はまたたく間に、赤宇木を含む津島地区に広がり、獣医師の確保が喫緊の課題となりました。

田中さん「かばん一つ持って行ったんです。酪農のまちにしたいということで、酪農を広めようと思ったんですよね」

おととし、亡くなった田中さんの夫・陽郎さんは、いまから60年以上前、初めての獣医師として津島に入り、黎明期の酪農を支えました。

田中さん「だんだんと酪農家が増えていって、うれしくてうれしくてね。」

縁もゆかりもない福島の山あいの村に飛び込んだ若い2人を住民たちは歓迎しました。下宿先は、いまの復興拠点にある松本屋旅館です。持ち主の今野秀則さんは、悩んだ末に、この建物を残すことを決めました。

田中さん「本当に、わからない人間でも自分らの家族のように、扱ってくださったということ自体がうれしかったですね。それは、津島の方の気性ですよね。他人が他人ではないという、家族だって」

邦彦さんは、当時の2人の姿を覚えていました。

今野邦彦さん「結婚前に津島に1回おいでになりましたよね?記憶にあるんです」
田中さん「ああそうですか。ありがとうございます」

大阪出身の田中さんは、津島での暮らしに不安もあったといいますが、心を決めたのは、住民たちの温かさでした。

田中さん「私は田舎って、住んだこともないし、見たこともないし、生活できるかどうか自信がないものだから一度見に行こうって。で、見に行って、いろんな方とお話をさせていただいて、ああ、ここなら私は住めるかもしれない。間違ったことがあっても、みんなが手助けしてくださるから。そう思って行ったんです」

2人は津島で結婚。式は、当時完成したばかりの高校の体育館を使い、地域の人が総出で、2人を祝いました。三々九度のお神酒をあげたのは、7歳の邦彦さんでした。

2人が福島を離れる際には、酪農家たちが岡山まで見送りに来たといい、田中さんと津島の人たちの交流は、いまも続いています。

「100年は帰れない」と言われた赤宇木。いまも、帰還困難区域のままです。津島を「第二のふるさと」と話す田中さんもまた、記録誌に将来を委ねます。

田中さん「津島だけの問題じゃなくて、生きている人間の問題ですね。主人の話や津島の方の話を聞いて、その100年後というのを見てみたいです」

いまも続く赤宇木の住民と、地域に心を寄せる人たちとの交流。記録誌に委ねた「ふるさと」を一刻も早く元通りにすることが、何よりも求められています。

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