太平洋戦争中に戦況の悪化にともなって行われた「学童疎開」では、都会に暮らす子どもたちが地方へと移されました。

静岡市清水区の寺では、100人以上の学童疎開を受け入れ、戦争から子どもたちを守った歴史があります。

静岡市清水区にある一乗寺です。住職の丹羽崇元さん。この日、地元の小学生たちが授業の一環で寺の歴史を聞きにきました。

<一乗寺 丹羽崇元住職>
「今みんなの目の前に絵がいっぱいあると思うんですけれども、実はこの絵は、その当時、戦争でこのお寺に避難に来てくれた学童疎開のお友達が実際に書いた絵なんです」
「どこの場所か分かる?」
「本堂、一乗寺の!」

太平洋戦争末期、空襲を避けるため行われた「学童疎開」。東京など大都市の国民学校初等科、今の小学3年生から6年生までが親元を離れ地方で集団生活をしました。

一乗寺では、丹羽廉芳禅師が1944年8月に東京都の小学生108人を受け入れました。

寺には、疎開中の様子を描いた紙芝居が今も残っています。

<一乗寺 丹羽崇元住職>
「この本堂の中で、これは座禅をしている時間になります」

当時、子どもたちは寺に寝泊まりしながら近くの学校に通いました。こうした集団生活が半年以上、続きました。

「みんなで一緒にご飯を食べる、給食のような時間もあったということです。みんな丸刈りなので、お坊さんのような雰囲気はあると思うけど、戦争中なのでやっぱり髪型とかを気にしている余裕がない」

当時、一乗寺に疎開した佐藤英子さん、91歳です。東京で6人兄弟の長女として生まれ、11歳の時に疎開が決まりました。

<一乗寺に疎開した 佐藤英子さん>
「戦争もですね、激しくなってきましたし。親も心配なので、行った方がいいんじゃないかということで」

一乗寺で始まった慣れない集団生活。中には、親が恋しくなり脱走した子もいたといいます。佐藤さんには忘れられない思い出があります。

<一乗寺に疎開した 佐藤英子さん>
「(地域の人が)ミカンを持ってきてくれるんですよ。美味しかったですよ。甘いものなんて食べていませんからね。お腹を空かしていた私たちにとってはそのお腹を満たす唯一の楽しみでしたよね」

戦時中は食糧が不足していましたが、住職や地域の人が協力し、果物や野菜をかき集め、1日3食食べることができたといいます。

<一乗寺に疎開した 佐藤英子さん>
「本当、涙が出るくらい感謝ですね。幸せだったなと思って。その時はね、あまり恐怖を感じなくて済んだわけだから」

悲惨な戦争の最中でしたが、人の心の温かさに触れた時間でもあったといいます。

<清水庵原小5年生>
「戦争の怖さとか昔の大変さなどを聞けたのですごくよかった」
「戦争で困ったこととか、戦争に関係していることをもっと知りたいです」

丹羽さんは、当時の住職の思いを受け継いでいます。寺でこども食堂を開いたり、コロナ禍の居場所として開放したりするなど、子どもたちのための活動を続けています。本堂には絵本やおもちゃも用意されていて、いつでも子どもたちが立ち寄れるようにしています。

<一乗寺 丹羽崇元住職>
「時代は変わっても、子どもたちの居場所であったり、安心安全の場というのを作っていく。これは今生きている私たちの使命なのかなという風に感じています」

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