シベリア抑留を経験した父の手記を偶然見つけた男性を取材しました。
手記からみえたのは、命がけの過酷な抑留生活と、衰弱する捕虜兵を勇気づけた父のある行動でした。
シリーズ― 終戦から79年
新潟市江南区にある「横越神社」は戦時中、召集された人たちが集まり、集落の人たちから激励された場所です。
神田勝郎さん(87歳)は、父・正平さんが召集令状を受けとった1945年の1月のことを覚えています。終戦7か月前のことでした。
「2回目の応召を受けたときは、しかも1月のあの寒い冬の朝にまた出兵しなさいという赤紙をもらうわけですから、本人にとってはやっぱり非常に苦痛であり、寂しい思いを吐露してたと思います。何となくそれは雰囲気でわかりましたね…」
父親が異国の地から帰国したのは、終戦からおよそ2年が経った1947年7月10日。
父・正平さんが経験したのは『シベリア抑留』でした。
60万人以上の日本人が旧ソ連軍に連行され、戦後も強制的に働かされた『シベリア抑留』では、過酷な労働や飢えなどに苦しんだ多くの命が失われました。
帰国を果たした父親の口からは、そんなシベリア抑留のことが語られることはほとんどありませんでした。
ところが今からおよそ2年半前、新潟市江南区の神田勝郎さんは、自宅の蔵にお米を取りに行った時に偶然、亡くなった父・正平さんが語ることのなかった“記憶”に思いがけず触れることになるのです。
「お米を取りに来たんだけども、なぜかそこに目は行かず…。父の書棚に、ここの上の方に、これが他のものと一緒に束ねたまま、紐か何かで縛ってありました」
題名は『我が思い出の記』。
帰国後に、父・正平さんがシベリア抑留の記憶を綴った手記です。
これを見つけたのは、ロシアによるウクライナ侵攻が始まるわずか1か月前のことだったそうです。
「何かタイミング的に、父が私にね、これを見つけなさいと。そういう天の啓示じゃないけども、何かインスピレーションが浮かんだのかなと思ったんですけどね」
お米を取りに行った神田勝郎さんが偶然見つけた父の手記『我が思い出の記』の最初の部分には、戦地へ向かうために自宅を出発する日のことが記されていました。
『戦況は日々悪い方向にあった…』
『家を出る時、裏の三勇次さん(宅との)境に来ると、振り返って我が家を見て…』
『再びこの家に帰れるだろうか、よくよく見たことを覚えておる』
【神田勝郎さん】
「我が家とこのお隣のお家のこの境あたり、この辺だと思うんですよ。病気だった母のことを思ったり、我が家の行く末を考え、振り返ったと思います」
父・正平さんは、終戦の知らせを出征先の朝鮮で受けています。
その当時、大きな役割を正平さんは任されていました。
停戦命令が入った書簡を、馬に乗って最前線の部隊へ届けるという役目です。
【神田勝郎さん】
「大事な終戦、敗戦の報を前線第一線にいる上官に伝えなさいという、いわゆる『乗馬伝令』ですね。馬に乗ってメッセージを伝える…」
過酷な状況下で正平さんは、無事その大役を果たしました。
『敵の偵察機か何か単機が飛来し、我々を発見し…』
『機上掃射を受けて、慌てて山の谷合の中に逃げ込んだ事もあった』
『成美中尉は早速封を切る。しばらくすると静かな声で「戦争は終わったよ」と、一言言っただけ』
『その表情は何とも形容の出来ない淋しい様な悲しい様な放心状態の顔であった』
その後、日本兵は武装解除が行われ、旧ソ連軍の捕虜となります。
神田勝郎さんの父・正平さんの残した手記には、捕虜となってから劣悪な環境だったことが記されています。
『2ヶ月、もちろん風呂や水浴等も全然なく、汗とアカにまみれ、しかも兵隊全員が虱(シラミ)の発生で悩み続けておった…』
さらには、過酷な労働を強いられる中で与えられる食料も常に不足していました。
そのようななかで、大晦日の夕飯についても記してあります。
『一日の重労働を終えて晩めしを楽しみに帰ったところ、当日は黒パンの配給なしであった。おかげで歳夜の晩は馬鈴薯の煮たもの2つが夕食のご馳走であった。このことは一生忘れる事はできない』
【神田勝郎さん】
「そういう目に遭うなんてのは、もう想像を絶することですよね。これ読んでても本当にジーンときましたよ」
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