妙蔵寺に残る佐治堯英さんの写真。1970年ごろ撮影とみられる

 戦後79年。旧日本軍の「史上最悪の作戦」とも言われるインパール作戦に従軍し、戦友たちの無念を胸に遺骨収集に半生をささげた故・佐治堯英(さじ・ぎょうえい)さん(1920~95年)と、その家族の歩みをたどる。(今坂直暉、岩崎加奈)

◆手帳に残されたビルマ語

 色あせたメモ帳の表紙には「佐治」の漢字とそのビルマ語。中をめくると、「兵隊」「道案内」などの日本語の隣に、ビルマ語での読み方がカタカナで書かれている。ところどころでインクがにじむ。旧日本軍の「インパール作戦」に従軍した故・佐治堯英さんが残したものだ。

 インパール作戦 1944(昭和19)年3〜7月、旧日本軍が、連合国軍による中国への物資補給の拠点だった英領インドのインパール攻略を狙った作戦。ビルマ(現ミャンマー)から山間部を越える険しいルートだったにもかかわらず補給を軽視し、惨敗した。3万人以上の日本兵が命を落としたとされ、遺体で埋まった撤退路は「白骨街道」と呼ばれた。

 堯英さんは静岡県伊豆市の妙蔵寺の家に生まれた。大学在学中に戦争が激化。卒業を繰り上げて召集され、43年にシンガポールで旧陸軍「独立有線第94中隊」に参加、44年にインパール作戦に投入された。  「ニガミノ有ル大根ヲオロシ、其ノ汁ヲ布ニテコス」。手帳には、砂糖の製法としてそんな記述もある。物資不足の中で手元にあるものでしのごうとしたのか。「マンダレー攻略ノ歌」と書かれた歌詞のような記載もあった。  旧日本軍の「史上最悪の作戦」とも言われるインパール作戦で部隊はどんな戦いを強いられたのか。堯英さんの部隊で上官だった故・原田五郎さんの家族が持っていた「中隊戦誌」を見せてもらった。部隊の幹部が戦後、書いたとみられる。

◆中隊269人中64人が命を落とす

 「敵機の来襲爆撃物凄(すご)く、中隊は各所に於(お)いて数多(あまた)の犠牲者を出しつつも作戦に支障無き様必死に通信連絡に任ずる」  「逐次後退する」  「爆撃銃撃熾烈(しれつ)を極む」  「敵戦車の攻撃物凄く中隊は各所に於いて分断される」  激烈な戦闘をうかがわせる記述が続き、中隊269人のうち64人が戦死・病死したと記録されている。  原田さんは生前、家族に、退却した際の出来事をこう語ったという。「木陰に戦友が寝転んでこちらを向いて笑っている。声をかけようと思って近づくと、戦友は亡くなっていた。口からうじが湧き、遠くからは笑っているように見えただけだった」

堯英さんが残したメモ帳

◆「人を傷つけたくない」武器を向けることなく

 中隊戦誌によると、兵士たちは現地の収容所に集められ、道路建設作業に従事させられた後、46年に復員した。堯英さんは復員後、戦中のことについて多くを語らなかったが、次男寿英(じゅえい)さん(72)は、積み重なった日本兵の遺体の中に隠れて英軍の攻撃をやり過ごした、という話を聞いたことがある。  堯英さんは、「人を傷つけたくない」と通信兵を志願し、人に武器を向けることはなかったとも話したという。寿英さんは「当時の学生として『お国のため』という思いと、殺生してはいけないという僧侶としての教えを守ろうとする思いが交錯していたのでは」と考えている。

◆戦後は教師に 慰霊の決意揺るがず

 インパール作戦に従軍した佐治堯英さんは復員後、妙蔵寺の住職をしながら、地元の中学校の国語教師として教壇に立った。生徒に慕われる教師だったという。一方で、取り組んだのは戦没者の遺骨収集だった。  堯英さんは戦地で「もし、自分が生きて再び日本の土を踏むことができるなら、必ず英霊を慰める」と決意したと周囲に語った。戦後すぐにでもビルマ(現ミャンマー)に向かいたかったはずだが、政情不安定でなかなか足を踏み入れることはできなかった。  まずは戦友たちの慰霊をと、1960(昭和35)年から毎年、妙蔵寺などで慰霊法要を執り行うことにした。供養に当たり、ビルマ式の仏塔「パゴダ」を妙蔵寺に建設。資金は64年からの5年間、JR沼津駅前で托鉢(たくはつ)をするなどして集めた。70年に完成し、「世界平和パゴダ」と名付けた。寺は日本人とビルマ人の交流の場となった。

◆1971年に戦後初めてビルマへ

沖縄で遺骨を収集し、手を合わせる堯英さん(中)の写真が妙蔵寺に残る

 71年、戦後初めてビルマの地に降り立ち、戦地を調査した。その後も何度もビルマ各地へ足を運び、調査結果をまとめ、遺骨収集の必要性を日本政府や全国の戦友会に訴えた。国境地帯では少数民族と政府の衝突が絶えず、武装勢力に一時拘束されることもあったという。  ビルマで戦った元日本兵らによる「日緬戦友会」が70年代に発行した会報に、堯英さんがビルマでの活動を報告している。「戦死者の多くは、白骨を河へ流し、少し残っていたものもあったが(略)洪水にあったりしているので、今はその位置を確認することのできる者は居ませんでした」。遺骨収集がなかなか進まないもどかしさが伝わる。

◆遺骨を探しサイパン、沖縄、サハリンにも

 日本政府の遺骨収集団が75年から大規模に派遣されるようになり、堯英さんも参加、インパール作戦の撤退路で日本兵の遺体で埋まった「白骨街道」でも遺骨を捜した。その後、毎年のように遺骨収集に向かい、サイパンや沖縄、サハリンにも行った。サイパンには移住までして、約1年間、遺骨収集に取り組んだ。  次男寿英さんによると、堯英さんは95年に亡くなる直前まで、遺骨収集の計画を練っていた。収集した遺骨は合計で千柱ほどに上る。寿英さんは「置いてきてしまった戦友たちを迎えに行かねば、という気持ちは変わらなかったのではないか」と振り返る。  日本の遺骨収集は、遺族や戦友ら民間を中心に進められた。堯英さんは生前、「国の命令で兵隊に出て戦地で死んだ者は、国が迎えに行くべきだ」と繰り返し話した。しかし、国による遺骨収集は積極的とは言えないまま、今も約112万柱が戦地に眠っているとされている。 【次ページ】孫娘の妙心さんが受け継ぐ祖父の思いに続く
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