15日は終戦の日です。旧ビルマ、今のミャンマーなどに渡り戦死した日本兵は数多く、いまも現地には遺骨が残されています。40年前、宮城県に移り住み、遺族らの慰霊巡拝の旅を支えてきたミャンマー人の女性がいます。終戦から79年、平和への思いは。

ミャンマーに学校を建てた女性

6月、仙台市内の語学学校で留学生らに日本の生活マナーを教えるオリエンテーションが行われました。この日、ミャンマー語の通訳を務めたスーザ・ミョータンさん。いまから40年前の夏、ミャンマーから宮城にやってきました。

スーザ・ミョータンさん:
「今も鮮明に覚えているのは、8月6日に着いてちょうど七夕のとき。お祭りが自分を迎えている感じがして別世界に来た感じ」

スーザさんは、仙台の旅行会社に務めるかたわらミャンマーに学校を建てたほか、県内に1000人以上いるとみられるミャンマー出身者の支援などを続けています。

「日本とミャンマーの架け橋」として長年、精力的に活動してきましたが、その原点は幼少期の家庭環境にあるといいます。

両親は日本と深いつながりを持つ

父は、ミャンマーの国民文学賞を受賞した作家で日本の大手新聞社の記者、そして日本大使館の相談役を務めました。

母は、理科の教師。日本兵に食料などを提供し交流をしていたというエピソードをスーザさんは繰り返し聞いたといいます。

スーザさん:
「ミャンマーにいる各大使館の社交の場、特別記念日とかなにかあると必ず父と母といっしょに同行させてくれた。毎日のようにお客さんがいて、特に日本の方々をみて日本に興味を持つようになった。戦後に日本の慰霊巡拝団とか遺骨収集団が来た時に大使館にも訪問するけど、うちにも訪問する」

日本へ渡ったスーザさんが現在まで力を入れてきたのが、ミャンマーやソロモン諸島ガダルカナル島への日本人遺族らの「慰霊巡拝」の旅です。

若くして亡くなった日本兵への思い

スーザさん:
「(日本兵は)若いときに、国の命令とはいえ20歳ぐらいで命を落としているので。家族としてはくやしさ、もったいない、その気持ちで行っています」

旧ビルマ、いまのミャンマーからおよそ470キロを行軍しインド・インパールを目指した「インパール作戦」。無謀な作戦の末3万人もの犠牲者を出しその退路は「白骨街道」とも呼ばれました。

また1942年8月、ソロモン諸島のガダルカナル島では日本軍はおよそ3万人の兵力を投じたものの、飢えやマラリアなどにより2万人以上が亡くなりました。

現地に残された遺骨はいまも数多くあり、スーザさんはその遺族らと慰霊の旅を続けてきました。

スーザさん:
「(ガダルカナル島の戦いに加わった)第2師団は宮城出身者が多い。慰霊についてはどなたよりも深い愛情を持っている。日本の中で一番といえるだけの数を行ってきていると思う」

「慰霊の旅」参加者の変化とは

9月にもソロモン諸島を慰霊に訪れる予定ですが、参加者に、ある変化を感じるといいます。

スーザさん:
「慰霊巡拝に行っていた戦友の方々はほとんど亡くなっている。年齢的に残っているのはご遺族。戦後も80年経っていて彼らの歳も80を越えている。遺族も高齢ですから海外に80過ぎてから長い旅というのは無理ですよね」

ミャンマーでは、2021年から内戦が続いています。若い世代にスーザさんが伝えたいのは平和の大切さです。

スーザ・ミョータンさん:
「平和というのは、日常生活で安心して幸せに生活できるということなので。平和な国々も、自分たちがどういう立場にいるか気づいてほしいし、感謝してほしい。それから平和を継続して大切に守ってほしい」

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