戦争の記憶を未来につなぐシリーズ つなぐ、つながるです。

今回は戦時中に浸透していた軍国教育について山梨県身延町の男性の証言です。
入社2年目、羽田記者の取材です。

小林只典さん:
「とっとこ とっとこ歩いてる 兵隊さんはきれいだな 兵隊さんは大好きだ」



身延町北川に住む小林只典さん、90歳。
口ずさむのは、70年以上前の戦時中、学校の授業で習った兵隊をたたえる歌です。

小林只典さん:
「もう『兵隊さんは大好き』に仕向けられているわけです」



太平洋戦争が始まる1941年(昭和16年)6歳だった小林さんは身延町の当時の小学校、冨里国民学校に入学し軍国教育を受けます。

小林只典さん:
「学校でも何かって言えば戦の練習ですから」

授業で習うのは竹やりや手旗信号など戦争に関するものばかり…。

小林只典さん:
「イ、ロ、ハ、二、こういったやり方をやらされるわけですよ」

『国のために立派に死ぬことが素晴らしい』とされる軍国教育。

子ども同士の遊びにも戦争が浸透していました。



小林只典さん:
「殴り合いも当たり前、喧嘩も当たり前。主として戦争ごっこですよ」
羽田明莉記者:
「それが当たり前?」
小林只典さん:
「当たり前、当たり前。大人も社会も学校もみんなそれが当たり前ですから。そうなって強くなったのが兵隊に行ったときに幅が利く」



生活の一部となっていた戦争…。
満足に食べることもままならない中、働き手の一人として背負子を担いで登校し、水汲みや畑仕事などの労働にあけくれる日々を過ごしていました。

小林只典さん:
「その狭い校庭を全部開墾してサツマイモを作った時代がありました」

そして国民学校に入学してからおよそ4年が経った1945年8月…。

11歳だった小林さんが終戦を知ったのは軍国教育を受けていた教室でした。



小林只典さん:
「斬り合いするなら竹やりでやるのかなっていう気持ちがあった。そういうものから解放される、終わったというのがあった」

小林さんは終戦直後のある光景が脳裏に焼き付いているといいます。

小林只典さん:
「終戦になるや否や大きな穴を掘って埋め込んだ。その埋めるところへたまたま立ち会った。ショックでしたよ、今まで崇めていたものを穴を掘って埋め込むわけでしょう。しかもね、ぶち込むからカチカチぶつかって火が出てるわけですよ」

戦時中に崇めていた忠誠の象徴、楠木正成の石像を埋める教師たち。
これまで教えられ疑うことのなかった軍国教育を否定する場面に直面したのです。

小林只典さん:
「学校行ってみたら今まで使っていた教科書には全部墨を塗れって。黒く。本当にえーって感じですよね。先生も困ったと思いますよ」


教科書に書かれていた防毒マスクの作り方や武器に関する文章など戦争の意識を高めるものは全て黒く塗りつぶすよう指示されました。



羽田明莉記者:
「塗りつぶした教科書はその後どうしたんですか?」
小林只典さん:
「どうしたかな…何しろね、おそらく焼いたと思いますね」

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