太平洋戦争が終わって79年。
山陰にも戦地に赴き、ふたたび故郷の土を踏むことなく命を落とした方、空襲の被害にあった方が数多くいます。
長い年月を経ながら残っている戦争の記憶を伝える遺跡を島根県大田市の三瓶山に訪ねました。

入江直樹 記者
「間もなく終戦の日です。こちら観光地にもなっている大田市の三瓶山なんですが、戦争の遺跡が残っているということです。こちらにはどういったものが残っているんでしょうか。」

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「三瓶は昔、陸軍の演習場となっておりまして、こちらの場所には大砲を打ち込んだ着弾点を確認する監的壕というのが残ってます。」

案内していただいたのは、地元小学生向けにふるさとを紹介する副読本を編集した志学まちづくりセンターの三谷和弘さんです。

三瓶山の東の原で生い茂る雑草をかき分けて進むと、コンクリートの建物が現れました。

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「トーチカ、トーチカって呼んでたんですけど。」

三谷さんが昔、友達と遊んでいたという監的壕(かんてきごう)です。
先の副読本によると国は明治21年から広大な三瓶山の中腹を陸軍の演習地として買収。
直後の日清・日露戦争でもここでの訓練が生かされたと想像出来ます。

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「ここ正面で、中に入って、こちらで着弾点を見てたような格好で。
原っぱが広がってる(場所に)500mか400m位トロッコ(の線路)が敷いてあって、(その上を)的が動いてるのを狙ってて、当たった、当たってない(を判定していた)。」

監的壕の背中側から大砲を撃ち、頭上を飛び越えた弾が当たったか細長い窓から確認しました。
誤爆に備えてか、コンクリートの厚みだけで1メートル位ある頑丈な造りです。
入口はとても小さいものの二重の鉄の扉があったようです。
中に入ってみると。

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「100年位経ったものが、こんなしっかりした形で残ってるってのも、すごいなと思います」

次に三瓶山の反対側の西の原に向かいます。
3年前の全国植樹祭で整備されたという丘を数百メートル上がって行くと、別の監的壕が。

こちらの監的壕は円筒形で、細長い窓も丸くカーブしています。
建物の後ろ側が入口です。

入江直樹 記者
「こちらは立った状態で外を観察してた感じですね。
志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「そうですね。ここが大分、広いですね。」

床には古びたサイレンが1つ転がっていました。

さらに近くの山道にはコンクリートの囲いのような物も。

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「グライダーの格納庫があったとも聞いてるんですよ。」

副読本の昭和14年頃の地図には
「グライダー格納庫」や「滑空場」とあります。
このコンクリートとの関係は分かりませんが、グライダーは何かの訓練用でしょうか。

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「飛行機の練習みたいな感じだと思いますけどね。」

最後に向かったのは、志学小学校、志学中学校の山側にある林です。
一面の竹藪をかき分けて進みます。

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「ここからずうっと下へ向かって10棟位あって。お風呂もこの下にあったようで、跡も残ってますね。」

明治41年に造られた陸軍の兵舎です。
地図には20数棟の建物が見えます。
はしごのような形のコンクリートは。

志学まちづくりセンター・三谷和弘さん
「おそらくここが(扉を)開けて入る個室のような格好だと思います。両サイドにある感じで。」

広島や浜田の部隊が訓練に来ると、兵士の数は3000人以上に膨れ上がったといいます。
兵舎には軍が掘った井戸や温泉が引き込まれ、三瓶温泉の共同浴場の一部も、軍が整備したものが今も大切に使われているとのこと。
戦後は、草原が残る東の原や西の原は放牧などに利用され、軍が持ち込んだスキーも盛んでスキー場が造られました。

三瓶山周辺に残る様々な戦争の痕跡。
もの言わぬそれらは、今も静かに人々に平和の尊さを語り掛けているようです。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。