明後日、8月15日で終戦から79年を迎えます。イブニングニュースではきょうとあさっての2回、先の大戦の振り返る特集をお伝えします。
垂井大尉が搭乗していた「飛燕」と妻への思い
きょうは今年、岡山で復元された旧日本軍の戦闘機についてです。
(垂井長治さん)
「飛行機でドンと行ったのではなく、飛行機で上から打たれたんです。だーーーーと、らしいわ。よう飛行機に乗ってな、(任務を)されよったんやなと思って」
岡山県美咲町に住む垂井長治さん77歳。長治さんの「おじ」にあたる垂井光義大尉は旧日本陸軍のエースパイロットでした。太平洋戦争中、垂井大尉が搭乗していたのが三式戦闘機「飛燕」です。
(垂井長治さん)
「話をしても優しいような人だったと聞いてましたけどね」
現在の美咲町に生まれた垂井大尉。天満屋に務めた後1934年、飛行学校に少年飛行兵・第1期生として入校します。
その後、陸軍のパイロットとして各地を転戦し華々しい撃墜記録を打ち立てます。そんな垂井大尉には故郷に残した女性がいました。
上空で旋回し戦地へと赴いた垂井大尉 戦地から届いた手紙には…
(垂井長治さん)
「飛行機でなんか近くを飛ぶことがあって、その時には家の上を二回ほど旋回してびゅーと行ってくれていたと」
垂井大尉が戦地のニューギニアに赴く際、美咲町の空を一機の飛行機が旋回したといいます。
(垂井長治さん)
「戦地に着いてから、この前旋回したのは僕だということを手紙に書いて送ってくれていたと」
戦地から内地の妻へと届いたいくつもの手紙。そこには遠い異国の地で愛する妻を思った心情が記されていました。
「見渡す限りの大海原、雨季を明けた南海は空に雲もない真夏の陽が再び本格的の暑さがやってきました。・・・・・今日はこれにてくれぐれもお元気で」
しかし、1944年。垂井大尉は戦闘で機体を失い、徒歩で転進していたところアメリカ軍の戦闘機に上空から撃たれたといいます。
突如、届いた戦死の知らせ。妻のもとへ遺骨は帰ってきませんでした。
ところが…。
(垂井長治さん)
「こんなことになるとは夢にも思っていませんでした。残骸を集めて、大きな飛行機をこしらえて…これはほんと宝物のように思います」
垂井大尉の愛機・飛燕177号機が故郷の地へ
戦後79年を経て、垂井大尉の愛機・飛燕177号機は、奇しくも故郷の地に返ってくるのです。
(会社経営者で飛燕を復元した武浩さん)
「この機体が垂井(光義)大尉の搭乗機というのが(後に)分かると、『俺を岡山に返せ』って、何かの縁だったのか、垂井さんに『押せ押せ』って言われたのか、そんな感じがしますよね」
バイクの整備業を営む武浩さんは、2017年、ネットオークションで戦闘機の残骸と出会い、思わず購入してしまったといいます。
その後、搭乗記録などから垂井大尉が搭乗したとみられる飛燕177号機と判明。
貴重な機体を元に複製機を作ることを決意します。
「飛燕177号機」実際の部品を取り寄せ、かつての勇姿が蘇った!
(武浩さん)
「ご年配の方々95歳、96歳、97歳、それ以上の方々、その方々に(複製した機体を)見ていただいて、元気になっていただこう、それが第一目標でした」
操縦桿や計器類など実際の部品を取り寄せ今年4月、かつての勇姿が蘇りました。
そして、完成式典には長治さんの姿もありました。
戦後、国内では戦地で夫を失った多くの未亡人がその家族と結婚しました。
夫を失い弟の元へと嫁いだ垂井大尉の妻、節子さん。
その間に生まれたのが長治さんでした。
生前、亡くなった父は、兄との思い出をよく話していたといいます。
(垂井長治さん)
「ええ兄貴だったな。言うてな。あちらの世界に行ったらまた、話をするんじゃないかなと思いますけどね」
戦後79年を経て故郷の地に戻ってきた飛燕。その翼は悲惨な戦争を伝える語り部だと長治さんは話します。
(垂井長治さん)
「みんなに見てもらって、これが戦争に使われた戦闘機か…と感じるようになって、皆が少しは腹を割って、こんなことしたらだめだなと話せるようになってね」
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。