戦争体験者の証言をお伝えします。

山梨県南アルプス市の男性は戦地から兄たちが送ってきた手紙を大切に保管してきました。
その手紙は戦争の悲惨さを今に伝えています。

男性は取材に応じていただいてから約2か月後の2023年10月27日にお亡くなりになりました。

男性が私たちに語った最後のメッセージを改めてお伝えします。

=戦地から兄が書いた手紙= 
「郷を遠ざかる戦線では郷土からの便が一番嬉しいですね」
「自分も相変わらず元気にてやって居りますから まず御休心下さい」

塩澤進さん:
「手紙を見れば兄貴と話をしているように感じる」



南アルプス市に住む塩澤進さん、91歳。

10歳以上年の離れた2人の兄、文吉さんと守雄さんが戦地から送った手紙を今も大切に保管しています。
その数19通。



隙間なく書かれた手紙は、家族を気遣う言葉で溢れています。

=戦地から兄が書いた手紙= 
「昨夜は家へ帰ってお母さんのお手製の馬鈴薯をうんと食べた夢を見ました」

塩澤さん:
「やっぱり兄貴も故郷が恋しいのかな。おふくろのジャガイモを煮たのが美味しかったと書いてある」

戦争が始まる前、塩澤さんは2番目の兄、守雄さんに連れられボロ電に乗って甲府中心街に出かけた思い出があります。

塩澤さん:
「ボロ電に初めて乗って、岡島百貨店でランドセルを買ってくれてね」

2人の兄が戦地へ

幸せだった生活は戦争が始まったことで一変…。2人の兄が、戦地に行く出征の時を迎えます。

塩澤さん:
「負けるとは思っていない」

小学生だった塩澤さんも喜んで送り出したといいます。しかし、これが最後の別れになりました。

やがて兄たちから手紙が届くようになります。検閲を受けているため戦地は明らかにされていませんでしたが、守雄さんの手紙には南国の風景と分かる丁寧な絵が添えられていました。



塩澤さん:
「今どこで何をしているのだろう。南国ということは間違いないのだけれど」

進さんに向けた手紙も…

=戦地から兄が書いた手紙=
「お前は3年生か。一生懸命勉強してお父さんお母さんを安心させてくれ」

幼い弟を家に残した兄たちの気遣いが垣間見えます。

しかし兄からの手紙も出征から1、2年で途絶えました。

塩澤さん:
「生きているのか、という話しかできなかった。『無事で帰ってきてくれ』願うのはただそれだけ」

そして終戦

連絡が取れないまま迎えた終戦。届いたのは兄2人の死を伝える知らせでした。



文吉さんは輸送船で硫黄島に向かう最中に攻撃に合い、守雄さんはパプアニューギニアで銃撃を受け亡くなりました。26歳、24歳という若さでした。



塩澤さん:
「うちのお袋は気丈な人だったが、泣いて転がった。こんなバカな話があるか、気丈なおふくろが転がって泣いた。『おかあちゃん、まだ僕がいるからいいじゃんけ』そう言っても42歳の時に生まれた子どもでしょ。頼りにできない気持ちがあった。その時に『よし 兄2人分の親孝行をしよう』と私の青春は親孝行で終わった」

塩澤さんは兄たちの遺骨を受け取りに甲府へ向かい、木箱を抱えて思い出のボロ電で帰宅しました。

塩澤さん:
「中を開けてみたら名札と落雁菓子が入っていただけ。こんなもんでした」

骨どころか遺品さえ戻ってきませんでした。



塩澤さん:
「何で兄貴こんな姿で帰ってきてしまった。平和の大切さがしみじみわかった」

塩澤さんは兄たちの遺志を継ぎ、教師の夢を諦め、農家の跡取りとして、ひたすら働き家族を支えました。

塩澤さん:
「(兄たちが)生きていたら、『進よく頑張ったな』って言ってくれるかな」

そして70年以上の時を経て塩澤さんは戦争の語り部としてかつて目指していた教壇に立ち、平和の尊さを伝えています。



塩澤さん:
「こんな愚かなことをしてはならない。何も残らない」

悲痛な思いと兄の言葉は終戦から78年経った今も色褪せません。

=戦地から兄が書いた手紙= 
「お身体を大切に さようなら」

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