シリーズ被爆79年「NO MORE..」。3回目は被爆体験を世界に、そして後世に伝える105日間の船旅に出た祖父と孫の思いです。

被爆者・小川忠義(80):
「疲れながらも105日間、12寄港地での証言活動が無事に終わったという安堵感はあります」
孫・長門百音さん(21):
「平和って戦争がないだけじゃないんだなと思いました」

長崎市に住む被爆者の小川忠義さん(80)と孫の長門百音さん(21)。2人は4月13日から先月26日までの105日間、核兵器廃絶を訴えるNGOピースボートの「証言の航海」に参加しました。

この旅で小川さんは、船旅に参加した若者や寄港地の人々に核兵器廃絶への思いや被爆後の家族の苦労などを語りました。

小川さん:
「(父親が)体調を壊した長崎市内に帰ってきてすごい貧乏をして、子ども5人いるなか母の内職で食いつないだ…。(証言を聞いた人は)『核廃絶を進めるためには、あなたたち被爆者が話を続けることが大事、話し続けて』と言われました」

百音さん:
「船内企画で平和について考えることがいっぱいあったので、環境・政治とかいろんな観点から平和って何だろう?と考える機会は毎日のようにありました」

「一本柱鳥居」の近くに家があった

爆心地から800メートルにある「一本柱鳥居」。被爆当時、小川さんの自宅はこの近くにありました。原爆投下から一週間後、家族とともに疎開先から戻った当時1歳の小川さんは入市被爆しました。

小川さん「確実にここにいたら我々は存在していなかった。家屋も全壊ですのでね。その辺に思いをはせてくれればいい、亡くなってたんよって、百音ちゃんも生まれていないよって」

小川さんは去年膀胱がんを摘出。被爆との関係はわかりませんが、戦後、家族を次々と病魔が襲います。

小川さん「白血病で姉が亡くなり、母は膀胱がん、父は脳梗塞。どんな因果関係だったのかはわかりませんけど、父は55で亡くなったから影響があるとかなとは思ってます」

写真が趣味の小川さん。長崎原爆の日が風化しつつあるのではないかと危機感を持ち、8月9日の11時2分にカメラのシャッターを切る取り組みを15年前から続けています。

その活動がピースボートの目に留まり、証言の航海への招待を受けた小川さんは活動を手伝っていた大学生の百音さんを誘いました。

小川さん「継承をさせるためというのもあったんですね、そのためには小中高では平和教育ばしとるでょうけど、より実践的にですね、世界を見てほしいなというのもあったんですね」

百音さん「私にとっては学校休まないといけないのが大きかったので、もう大学3年生だし、なんというか微妙、ちょっと強制・・・」

強制だったけど…孫の中に生まれた思い

今回の旅に参加するにあたり、外務省から「非核特使」を委嘱された小川さん。自身の孫と世界中の若者たちへの「継承」を目的とした証言の旅でした。

世界18か国22寄港地を回り活動に対する百音さんの意識にも変化が芽生えました。

小川さん「(百音さんに)私の活動も見てもらったし、海外の人たちの考え方もわかったし自分で取捨選択して今後の活動に大いに参考になったんじゃないかと思います」

百音さん「12回証言会いったので、ほかの被爆者の方もじぃじの被爆証言も、もう暗記したというか、覚えたかなと思っています。世界各地まわって、聞いた話とか、海外の反応とかを大学帰ったらまずまわりの友達にシェアしてどんどんシェアできたらなと思ってます」

被爆者の祖父から大学生の孫への継承。世界中の人々との交流を通して2人は「核兵器廃絶」にむけた取り組みへの思いを一層強めた旅となりました。

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