戦後の復興を願って昭和29年から始まったよさこい祭り。よさこい鳴子踊りは、ジャンルを問わない自由な振り付け、衣装、音楽で、日本のみならず、海外にも広がっている。その現代よさこいの礎を築いたのが故・國友須賀さん。生涯をよさこいにかけた須賀さんの功績はあまりにも大きい。そんな母の遺志を受け継ぎ、魂の踊りを伝えている長男・裕一郎さん(46)に、亡き母への思いを聞いた。

「よさこいを変えた」伝説のよさこい人・國友須賀さん

魂の踊り、愛あふれる言葉、輝くような笑顔。「まるで太陽のような人だった」と多くの人に愛された伝説のよさこい人、國友須賀さん。

國友須賀さんは、「劇団四季」出身で、結婚を機に故郷高知に帰り、1983年、高知市にスガジャズダンススタジオを設立。その後、よさこい鳴子踊りにジャズダンスを取り入れた革新的な振り付けで、民謡調が主体だったよさこいに新風を吹き込んだ。

セントラルグループを率いる國友須賀さん

中でも、1989年結成、須賀さん振り付けの「セントラルグループ」は、人々の度肝を抜くようなエネルギッシュな踊りで一世を風靡した。この踊りを見て衝撃を受けた北海道の大学生が、「北海道でもよさこいを」とチームに熱い思いを伝えたことから「YOSAKOIソーラン祭り」が始まる。よさこいが全国区になっていく序章ともいえる出来事のきっかけになったのだ。

「よさこいを変えた人」と注目される一方で、「伝統を破った」などとバッシングもあったという。それでも須賀さんは、「よさこいは世界に通じる踊り、皆を幸せにできる踊り」という信念を貫き、よさこいの魅力を県内外で伝え続けた。

その後、ハワイ・マウイ島に居を移していたこともあり、ホノルルフェスティバルにも17年連続出場、世界中から観光客が集まるホノルルの舞台でよさこいを世界に発信し、よさこいは「YOSAKOI」へと成長していく。

第1回ホノルルフェスティバルで踊る須賀さん

長男・裕一郎さんは、母亡き後、スガジャズダンススタジオを引き継ぎ、振付師、ダンサーとして活躍している。まさに「よさこいの申し子」といえる情熱的な踊りが印象的な裕一郎さんだが、意外にも長い間、踊りを拒んでいたという。

長男・國友裕一郎さん(2023年よさこい祭り)

最愛の母と離れて暮らす日々 踊りは「敵」だった

國友須賀さんの長男・裕一郎さんは、スガジャズダンススタジオの代表として、年間15~20チームほどの振り付けを担当している。そんな裕一郎さんのよさこいデビューは、意外にも遅かった。

■國友裕一郎さん
「よさこいが大きな変革のタイミングだったとき、祖母に連れられて祭りを見に行ったんですが、母が地方車の上で、レオタード姿で大きな羽根をつけて踊っているのを見て、家での母とのギャップに大きなショックを受けて、それがトラウマになってしまったんです。それ以来、踊りを拒んでいたのでよさこいに関わったのは遅くて、18歳の時だったんです」

裕一郎さんが小学2年のとき、両親は離婚。裕一郎さんは父親の実家がある高知市から西へ車で約2時間半のところにある宿毛市に引っ越し、母・須賀さんと離れて暮らすようになった。母の踊る姿にショックを受けたことに加え、母と離れて暮らす原因を作ったのがよさこい、ダンスだと思い込み、踊りを気持ちの中から遠ざけるようにしてきたのだ。

   母・須賀さんと 左が裕一郎さん 右が弟の慎之介さん            

■國友裕一郎さん
「小学校のとき、ストレスが体に現われる体質なのか、髪の毛が全部抜けてしまったんです。やはり母と離れて寂しかったんでしょうね。だからよさこい、ダンスは、自分たち親子を引き離した『敵だ』みたいな、そんな思いでした」 

しかし、そんな裕一郎さんを目覚めさせるきっかけとなる1本の電話があった

ホノルルでの感動 「よさこいへの目覚め」

母と自分を引き離した原因はよさこい。そう思い込み、踊りを遠ざけていた裕一郎さんに、高校3年の卒業間近、1本の電話があった。当時ハワイのマウイ島に移り住み、高知とハワイを行ったり来たりしていた母・須賀さんからだった。「裕一郎、卒業旅行でハワイに連れていってあげるから、高知のスタジオにおいで」

海外、しかも常夏の楽園・ハワイと聞いて裕一郎さんは「はい」と二つ返事。そこからは、須賀さんが思い描いた通りの裕一郎さん、よさこいデビューに向けてのシナリオが進められていく。卒業旅行に誘った本当の目的は、ホノルルフェスティバルで須賀さん率いるよさこいチームに参加させることだったのだ。

高知市のスタジオを訪れた裕一郎さん、あれよあれよという間に当時一世を風靡したあの激しいセントラルの踊りを練習させられ、いざハワイへ。そこで魂を揺さぶられる体験をすることになる。

■國友裕一郎さん
「ホノルルのカラカウア・アベニューという目抜き通りに、世界中から観光客が集まっていて、その中を國友須賀が先頭に立って踊るわけです。とにかく長い通りなので体力が限界に達し、途中でやめようかと思ったその時に母が先頭から走ってきて、踊り子に向かってこう言うんです。『私たちは高知からよさこいを通じて愛をシェアするためにやってきたのよ。魂から踊りなさい。思い切り楽しんで踊りなさい』と。心の奥が何か鼓舞されるような言葉で、踊り終わったら、無意識に泣いていました」

裕一郎さんはその時の感動が忘れられず、大学卒業後、母と同じ道を歩み始める。それから10年ほどは、離れていた時間を取り戻すかのように母のアシスタントとして、よさこいやミュージカルの振り付け・演出のサポートをするなど活動を共にした。ダンススタジオも、2010年には高知をはじめ北海道や関東など5か所に広がり、2人は全国を飛びまわる日々を送っていた。

しかし、親子で過ごす時間に終わりが近づこうとしていた。

母が最後まで貫いた「よさこい魂」

よさこいの魅力を伝えるため、精力的に活動していた須賀さん。そんな須賀さんを病魔が襲ったのは57歳のとき。胃がんで、余命4か月と宣告された。

そこから、がんとの闘いが始まるが、須賀さんは、変わらない笑顔でよさこい魂を最後まで持ち続けた。その年2011年3月のホノルルフェスティバルでは、東日本大震災の被害を知り、鎮魂の祈りを込め踊った。

痩せた体で、「命を燃やせ、魂燃やせ!」と叫び、よさこいのエネルギーが日本に届くよう、踊り子たちを鼓舞していたという。

亡くなる3か月前の須賀さん(2011年3月)

フェスティバルが終わった後、須賀さんは闘病中でありながら、裕一郎さんも驚く行動に出る。「日本で苦しんでいる人がいる。今、私にできることをやりたい」と、周囲の反対を押し切って日本に帰ってきた。そして帰国後はすぐに、全国のよさこい仲間に支援物資や支援金を呼び掛け、被災地で自ら炊き出しも行った。

■國友裕一郎さん
「千葉にもスタジオがあって、私たちは東日本大震災で被災したんです。そこにがんと闘っている母がやってきて約2か月、被災者の方たちの支援を行ったんです。もう痩せてガリガリになった体で。母の懸命な姿は、私たちに何かを伝えようとしているかのように見えました」

最後の力をふりしぼっての支援活動だったのか、その後、須賀さんは病状が悪化し入院。医師からは「あと数日もつかどうか…覚悟してほしい」と告げられる。それでも須賀さんは、最期までよさこいへの思いを口にしていたという。

■國友裕一郎さん
「母はベッドの上で、次のよさこいの指示を出し続けるんです。『九州の舞台はこういう風な構成にして』『今年のよさこい祭りでは、“五色の龍”の踊りをつくっていいエネルギーでパレードをして、エネルギーを高めていって皆に幸せになってほしい』ずっとそんなことばかり言っていました。息を引き取る直前まで、母は目をしっかりと開いて、その体からは強い意志が感じられるほど。最期は母の手を握りしめて、深い感謝の気持ちを伝えました」

2011年6月1日、國友須賀さんは家族や仲間に見守られながら旅立った。58歳だった。

「がんの私でもできることがある」と最後まで人の為に生き抜いた母。裕一郎さんは、そんな母の生き様を少しでも多くの人に知ってほしいと語る。須賀さんが、よさこいへの思いを表していた、こんな言葉がある。

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