「おばちゃんたちと皆さんはもう仲間なのよ」。広島市の平和公園にある被爆アオギリの下で、修学旅行生らに平和の大切さを訴え続けた被爆者がいます。「アオギリの語り部」と呼ばれ、2011年に87歳で亡くなった沼田鈴子さん。その沼田さんの遺品が、思いを受け継いだ仲間たちの手によってまとめられています。

2020年1月、広島市内の会議室に所狭しと並べられた段ボール。その中には、1万点を超える沼田さんの遺品がおさめられていました。

被爆体験を綴った原稿用紙、被爆証言の予定がぎっしりつまった手帳、いつも大事にしていたぬいぐるみまで…。

その遺品からは、沼田さんの人柄や、平和を訴え続けた強い思いを読み解くことができます。

原爆で失った左足…アオギリが生きる希望をくれ

沼田さんは、22歳のとき爆心地から1.4キロ離れた広島逓信局で被爆。建物の下敷きとなり、左足を失いました。

生きる希望をなくした沼田さんを救ったのは、“同じ場所”で被爆したアオギリでした。原爆に遭いながらも新しい緑の葉を出したアオギリを、自分自身と重ね合わせ生きる決意をします。

沼田さんが修学旅行生に証言をする際には、逓信局から平和公園に移された自身の「分身」アオギリの下でした。

沼田鈴子さん(1993年取材)
「運動場にあった木は逃げることもできないままに、ずっと燃えていきました。後にこの木は生きていることがわかったんです」

そして、被爆アオギリの種を「平和の種」として、証言を聞いた子どもたちや世界各地に送る活動も続けました。

1万点を超える遺品…数年かけて整理

沼田さんの生前の資料を整理しているのは、アオギリの種を国内外へ送る活動を支えた「被爆アオギリのねがいを広める会」のメンバーです。

会に資料の整理の依頼があったのは、2017年ごろ。沼田さんと共に証言活動をしていた被爆者から、「引き取り手のない沼田さんの遺品を管理してほしい」と依頼がありました。

いつかは、公的機関などへ預けることも見据えて、1万点を超える遺品一つ一つを整理していきました。

原爆資料館の学芸員にアドバイスを受けながら数年かけて沼田さんが書いた原稿や手帳、日記にある走り書きなども含めて目録にまとめました。

証言した人は年間1万人を超え 遺品から伝わる強い思い

沼田さんの活動をうかがえるのが手帳です。修学旅行生らへの証言だけでなく、海外での証言の予定もぎっしり詰まっています。

被爆アオギリのねがいを広める会 清水正人さん
「多いときは1日6校あった。朝2校、昼3校、それから夜1校。証言している人は、年間1万人を超えている」

精力的に証言活動を続けていた沼田さんでしたが、晩年は入退院を繰り返し手帳にも空白が目立つようになりました。

沼田さんの手帳より
「徐々に左肋骨が痛い。痛み止めが、なかなか効かないとか」
「病院に来て、そのまま原因不明で入院。午前3時であった」

それでも、退院すればすぐに予定されている証言に向かっていきました。

清水正人さん
「本当に激動の人生だったと思う。沼田さんの思いの強さというのは、手帳や目録からも見えると思う」

こうした沼田さんの思いを知ってもらおうと、会のメンバーは整理した資料の一部を展示することを決めました。写真を中心に、沼田さんが歩んだ道を紹介します。

生前、被爆証言をすることを「平和の種をまいているの」と語っていた沼田さん。その思いや願いは、いまも紡がれています。

沼田さんの遺品展は7月29日から8月4日まで、広島市まちづくり市民交流プラザ(広島市中区袋町)の1階ロビーで開かれます。

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