新潟県佐渡市で北朝鮮に拉致され、2002年に帰国した曽我ひとみさん(65)。
帰国から22年。母のミヨシさんはいまだに帰国を果たせていません。
曽我さんは今、何を思うのか…
BSN新潟放送の単独インタビューに応じ、胸の内を明かしました。

母の愛が詰まった“一枚の着物”

「仕付け糸がそのままついていたんです、開けたときには。“なんだろうね、この着物…”と一瞬思ったんですけど」

そう話しながら、曽我さんが見せてくれた一枚の着物。
北朝鮮から帰国後しばらくして、たんすの中で見つけたという特別なものです。

「私が拉致をされたのが19歳のときなので、きっと母が20歳の成人式のときに着せてあげたいと思って支度をしていてくれた着物かなと。まだ母には本当のことを聞けないでいるのでわかりませんけど、たぶんそうじゃないかなと思いました」

母の愛が詰まったこの着物は、曽我さんの宝物のひとつだといいます。

46年 会えない母に…「見せてあげたい、着た姿を」

今から46年前の1978年8月12日。
佐渡市で暮らしていた曽我さんは買い物から帰る途中、母親のミヨシさんとともに北朝鮮に拉致されました。

曽我さんは当時19歳。
北朝鮮はミヨシさんは“未入境”だと主張し、事件から半世紀が経とうとする今も、行方がわかっていません。

「見せてあげたいんですけどね…。着た姿を」

成人式の年に、袖を通せなかった着物…
ミヨシさんは、心待ちにしていた娘の晴れの日を待たずに拉致され、今年12月に93歳になります。

「タンスに隠してあったお金を持ち出して…」

曽我さんがよく覚えているのは、家族のために朝から晩まで身を粉にして働き通した、母・ミヨシさんの姿です。

この日も、そんなミヨシさんとの忘れられない思い出を話してくれました。
小学生だった曽我さんが、友達が新しいセーターを着ているのを見て、うらやましくなったときのことです。

「たんすに隠してあったお金を持ち出して、勝手に新しいセーターを買ってしまって。帰ったら絶対に怒られるんだろうなって思ってはいたんですけど、でも母親は怒らなくて…。『母ちゃんが服の一つも買ってやれんもんだし、ひとみが一人で買ってきたんだな。堪忍な』って」

「本当は私が謝らなければいけないのに母親のほうからそんな言葉をかけてきて、謝ってきて…。ああ、悪いことしたなと思って。怒られなかったからこそすごく心に刺さって、今でもそのことは忘れられないこととなっています」

「この時計が私のもとにあったから―」

拉致から46年。
ミヨシさんの居場所につながる手がかりが見つからない中で、曽我さんにはいつも手離すことができない、かけがえのないものがあります。

「きょうも腕にはめていますけど…」
取材時、曽我さんがそう切り出したのは、腕時計です。

「私が看護学校にいたときに、どうしても男物の大きな時計を買ってほしいと、わがままを言いまして。当時、男物・女物って区別されていて、女物だったら少し小さいから多少値段は安いんですけど、私はどうしても大きくてちゃんと見えるほうが、患者さんたちの脈を測ったりするのにも便利だなと思って、どうしても大きいのがほしいっておねだりをしまして」

1977年、准看護師として病院で働き始めた曽我さん。
北朝鮮で生活を余儀なくされた24年の間も、ミヨシさんが買ってくれたこの時計を、ずっと大切に持ち続けました。

「家計もすごく大変なときだったので、母が借金をして時計を買ってくれました。その時は、母はすごく大変だったと思うんですけど、今になって思えば、そのときにおねだりをしてどうしても買ってほしいと言ってよかったなと思っています。この時計が私のもとにあったから、悲しいことも苦しいことも、うれしいときにもずっとこの時計に話しかけてくることができたので」

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。