県外で活躍する青森県民を紹介するターニングポイント。人生の転機となったそのとき、どのような思いや決意があったのか。
第84回のストーリーは、八戸市出身の城戸理加(きど・りか)さん。

沖縄那覇市にある沖縄の食材と青森の果物や山菜などを使用した弁当を販売している『椛(もみじ)弁当』。城戸さんは、その店を夫婦で経営している。

幼少期は「村中で缶蹴り」 偶然目にとまった大学の掲示板が人生の転機

城戸の幼少期は、旧南郷村の豊かな自然の中で育った。

城戸理加さん
「中学生、高校生ぐらいまでがみんなで村中で缶蹴りしたりとか、田んぼ野球をしたりとか、そういう環境で育ちました」

自分の住んでいた地域はダムに沈み、別の場所へ移動して中学に通った。その頃から、料理番組を見るのが好きだった。

城戸理加さん
「料理番組が非常に好きだったので欠かさずに見ていたんですけど、(料理を通じて)日本のどこかっていうよりは、世界中のいろんな所にいろんな物があるっていうことに興味があったのではないかと思います」

漠然と広い世界を見てみたい気持ちがあふれていた頃、北海道の大学に進学。3回生で卒業する単位を取り置いていた頃、大学の掲示板で交換留学の募集を見つける。

交換留学で沖縄へ “1年”のつもりが移住することになった運命の出会い

城戸理加さん
「大学で(掲示板を)パッと見たら、交換留学がありますと。私の学部は(留学先が)沖縄だったんですよ。申し込み期限も3日ぐらい過ぎていて、先生のところにいって『これ受けたいんですけど、また受けられます?』って言ったら『まだ誰も応募者がいないから受けられるよ』と言われて受かって、沖縄に来たんです。4年のときに」

1年で帰るつもりだった沖縄で選挙のアルバイトをした時に、後に城戸さんの夫となる伸一郎さんと出会い、結婚。そして出産を経験した。

城戸理加さん
「すぐ子どもが生まれ、夫は元々運送業をしていたので、育てながら運送業を手伝っていました」

そのうち、伸一郎さんが元々やりたかった飲食業を始めることになったが、当初、理加さんは違う仕事を続けていた。

城戸理加さん
「私は、(夫と)同い年なので、同じ仕事をすると絶対にけんかすると思いましが、半年ぐらいして、どうしても人手が足りなくてできなくなったので、『じゃあ、弁当店の仕事に入ろうか』ということで、実は(私は)後から加入しているんです」

夫婦で弁当販売を始めて3年が経った頃、東北であの震災が起こる。

「物じゃないところに意味を感じてくれた」被災者の支援と感謝のことば

城戸理加さん
「(震災後)福島の方から沖縄に避難してくる方が結構多かったんです。(夫が)『すぐに自分は弁当を無償提供したいんだ』と。『それは、すごく素晴らしい』となった。困っているだろうから、食べ物で少しでもお役に立てればっていう気持ちでやっていたんです」

“人とつながっている、独りじゃない”とつづられた手紙。
支援した方から寄せられたのは、お弁当のお礼だけではなく、知り合いのいない土地に来ている中で、毎日弁当を届けてもらうということで人とのつながりを感じて助けられたという声だった。

城戸理加さん
「感動しちゃいました。物じゃないところにすごく意味を感じてくれたんだなって。逆にありがたい」

城戸さんは、目頭を熱くさせながら当時を振り返った。夫・伸一郎さんから見た妻・理加さんの人柄はー。

夫・伸一郎さん
「東北の女性は強いとかって言いますよね。和をもって丸くしてくれるっていうか、お客さんに対してもそうだし、お母さん感は常ににじみ出ている部分はありますね」

城戸さんは、これからも弁当で人々に幸せを届けていく。

城戸理加さん
「単純に、青森のものっておいしいから広めたいっていう気持ちもありますし、食材を通して“青森イズム”を伝えたいような気はします」

沖縄に移住して20年以上が経過し、青森より長く住むこととなった城戸さん。これからも青森に貢献できることは、『まだまだあると思います』と語気を強めた。

青森テレビ「わっち!!」月~金曜夕方4時25分
「Turning Point」2024年7月16日(火)放送回より

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