かつて「総会屋」という裏社会の人々がいた。毎年、株主総会の直前になると「質問状」を送りつけて、裏側でカネを要求した。昭和からバブル期を挟んで平成にかけて、たったひとりの「総会屋」が、「第一勧業銀行」から総額「460億円」という巨額のカネを引き出し、それを元手に野村証券など4大証券の株式を大量に購入。大株主となって「野村証券」や「第一勧銀」の歴代トップらを支配していた戦後最大の総会屋事件を振り返る。

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綺麗ごとに聞こえるが、検察とメディアは「社会正義の実現」という共通の目的をある程度共有している。しかしながら、「国民の知る権利」に早く応えるというメディアの公益性と、検察の「捜査密行の原則」は常に相反し、ギリギリのところで折り合いを探っている。

総会屋への利益供与事件は、捜査の進展とともに報道も過熱していた。野村証券の経営トップへの強制捜査をめぐり、大手新聞社が「前打ち報道」でスクープを放った。しかし、各社が当日、関係各所でカメラを構える中「前打ち報道」が予告した通りの動きはなかった。捜査の裏で何が起きていたのか、メディアと検察の関係を検証する。

前打ち報道

ある日の朝、特捜部長の熊﨑勝彦は、筆者につぶやくようにこう言った。

「総会屋への利益供与は野村証券の総務部門だけで判断できることやないで。問題は上層部がどう関わっとるのか」

「金融機関が総会屋に屈したことは悪いが、企業側だけをやるのは、不公平。理不尽な利益を要求をした総会屋も悪いやろ」

そもそも、総会屋や暴力団など「反社会組織」に対する捜査は、警視庁捜査四課などが得意とする分野だった。1982年の商法改正では、警察が主導で「総会屋排除対策」に取り組んだ。戦後最大級の「イトマン事件」絡みでは、大阪地検特捜部が元山口組の関係者や関連企業などを捜査したが、東京地検特捜部単独で総会屋や暴力団への強制捜査は、前例がなかった。1992年に摘発した「東京佐川急便事件」でも、警視庁捜査四課と合同で「稲川会本部」への家宅捜索を実施している。

また証券取引法では、証券会社が顧客に損失補てんをした場合は、顧客の要求に応えていた証券会社側だけが立件されていたが、今回は証券会社だけでなく、損失補てんを要求した側の「総会屋」小池隆一についても立件したのだ。

「顧客が損をした場合に、証券会社にクレームをつけるのは理解できるという誤った風潮もあった」 (元特捜検事)

1996年5月14日、特捜部は野村証券の元常務らを逮捕、続いて翌5月15日には総会屋・小池隆一と実弟を相次いで逮捕した。これらの供述などから、利益供与は経営トップの指示、了承があった上で実行されたものと判断し、捜査は大きな局面を迎える。

こうした中、1997年5月29日、「毎日新聞」が朝刊一面トップで「野村証券・酒巻英雄元社長を逮捕へ」「東京地検特捜部は29日にも商法違反(利益供与)の疑いで逮捕する方針を固めた模様だ」とスクープを報じた。
この「前打ち報道」は、29日に酒巻元社長を商法違反(利益供与)で逮捕することを予告するような内容であったため、検察幹部や特捜部長の熊﨑らの神経を逆撫ですることになる。

強制捜査中止

これは「報道の自由」と深くかかわるテーマだが、「捜査密行主義」が原則の検察にとって、「前打ち報道」は捜査妨害につながるとして、非常にナーバスだ。「前打ち報道」を見た容疑者が「自分が捜査対象になっている」ことを察知して、口裏合わせなどの証拠隠滅工作を図ったり、逃走や自殺する恐れもあるからだ。

そうなると証拠収集が難しくなり、事件が潰れてしまう可能性がある。また情報を漏らしたのは「取り調べた検事」やその上司らではないかと被疑者側から疑われ、特捜部を信頼しなくなり、捜査協力が得られなくなる。もちろん、こうした口裏合わせなどの証拠隠滅工作自体を、詳しく立証することによって、悪質性を補強し、証拠をより強化する大きな柱になることもある。

そうした状況で司法記者は「隠密裏」の捜査情報を取るため、捜査報告が上がる検察の決済ラインや捜査対象者や参考人、弁護士などあらゆる階層への取材の蓄積から、強制捜査着手のタイミングなど展開を読むのである。

メディアはまず「第一報」が勝負どころだからであり、他社に遅れを取れば「特落ち」という烙印を押されてしまう。加えて、着手情報が取れないと、逮捕前の映像も入手できない。また容疑者がいったん逮捕されて拘置所に入ってしまうと、「犯罪行為の真相を最もよく知る」当事者の弁解を聞くことも不可能となるからだ。

どのタイミングで「前打ち報道」をするのか、着手の「Xデー」まで待つかの微妙な判断は、報道各社が最も神経をすり減らす。さらに「前打ち報道」は、それがスクープとして内容が正しかったのかどうか、すぐに結果が出るためなおさらだ。
多くの場合、報道各社は「任意捜査」から「強制捜査」に移行して初めて、「実名報道」に切り替えて続報を打っていくが、着手までの取材の蓄積が、他社との勝負を大きく左右する。

特捜部長の熊﨑は5月29日の朝、世田谷区砧の自宅で、「毎日新聞」が前打ちしたことを知り、激怒した。司法記者クラブ各社は、毎日新聞のスクープ記事を見て、関係各所に取材陣を張り付けていたが、予想に反してその日、まったく動きはなかった。
実は酒巻元社長に対する強制捜査、逮捕は中止されたのであった。「前打ち報道」は結果として、タイミングを外された形となった。

本来なら「前打ち報道」が出ると、特捜部は、捜査対象者が記事を見て自殺や逃亡、証拠隠滅を防止するため、すみやかに逮捕することもある。しかし、今回は「前打ち報道」があっても急いで逮捕する必要はなかった。特捜部はすでに元社長の自宅の家宅捜索はすでに実施し、所在や行動も把握していたからだ。

検察リーク

むしろ、検察が懸念したのは、この日に酒巻元社長を逮捕した場合、「前打ち報道」を認めたことになり、次のような批判を避けたかったと見られる。

「検察が捜査を有利に進めるため、情報をメディアにリークして、国民世論を一定の方向に誘導している」

これは犯罪が明らかになることを望まない国会議員などが、メディアや検察を批判する際に、よく使う言葉「検察リーク」である。
しかし、これは筋違いの批判であり、まずはメディアが検察を情報源として報道すること自体には、何の問題もない。

それに容疑者を自殺に追い込むような容疑事実の前打ち記事や、のちの公判で立証の切り札になるような証拠を、積極的に司法記者に書かせる特捜検事はまずいない。「事件がかわいい」からである。

「検察は法廷こそが勝負の場だと思っていますから、捜査途中で立証の柱と考えている有力証拠が事前に報道されるのを極度に嫌います。被告側が公判に向けて弁解を考え、別の証拠を準備して抵抗するからです」(村山 治 元朝日新聞編集委員)

「『検察リーク』には大きな誤解があり、記者クラブに座っているだけで自動的に情報が入ってくるわけでない。P担(検察担当)の頃は「守秘義務の壁」を破るために、「夜討ち朝駆け」を繰り返し、『この記者は信用できる』という人間関係を構築するために、盆も正月もなかった。むしろこうした他社が来ない日を狙った。よく『千日回峰行』だねと言われた」 (大手新聞社 元司法記者)

もっともメディアが独自に不正や疑惑を掘り起こし、証拠も含めて特捜部に持ち込み、それがうまく事件に発展する場合もある。こうした「メディア先行型」の事件の場合は、検察としても端緒を提供してくれたメディアには「見返り」として、着手予定の見通しを情報共有するだろう。  

これは検察による「情報操作」や「リーク」とは言わない。情報をくれたメディア、記者に対する「正しい情報公開」である。万が一、他社の記者が別ルートからこれらの情報を取って、先に報じてしまったら、情報をくれたメディアや記者にも顔が立たないからだ。

元朝日新聞編集委員の村山治氏は捜査機関と記者の関係について、著書でこう述べている

「国民の知りたいことを伝える記者の立場では、容疑の内容や被疑者・関係者の供述内容、捜査の状況について、検察や警察が記者に説明するのは当然のことです。国家公務員法で情報提供が禁じられている「秘密」にはあたりません。税金を使い、公権力を行使して捜査をしているのですから、それらの説明は「リーク」ではありません。
記者の立場からすれば、当局が果たすべき「説明責任」です。もちろん、当局の情報提供と報道が被疑者・被告側と被害者側の権利侵害になってはいけません。そこへの配慮を尽くしながら、当局はできるだけ情報を開示する。受け取った記者側は、情報の裏付けをとり、人権侵害や公益阻害にならないか慎重に判断した上で、記事にする。それがあるべき姿だと思います」(村山治「検察」より)

ついに野村証券元社長逮捕

さて総会屋事件に戻る。毎日新聞が酒巻元社長逮捕を予告する「前打ち報道」をした翌日、1997年5月30日の早朝6時すぎ、東京地検特捜部の係官3人が、酒巻元社長の住む東京・渋谷区の「広尾ガーデンヒルズ」に入った。
約30分が過ぎたころ、エントランスから出てきた東京地検の係官が報道陣に向かって、こう説明した。

「本人は逃げたり隠れたりするつもりはない。堂々と出たいと言ってるから、追いかけないでいただきたい」

続いて2人の係官に、両脇をはさまれながら酒巻が姿を見せた。白いワイシャツの上にダークスーツ。胸には野村証券の社章、シルバーのピンバッジが輝いていた。この社章は、野村家の由緒ある紋章の「蔦の葉」と、屋号の 「ヤマト」 をあしらったもので、業界ではその形からへとへとまで働く「ヘトヘトマーク」とも呼ばれていた。

任意同行を求められた酒巻はゆっくりした足取りで車に乗り込み、約15分で霞ヶ関の東京地検に到着した。特捜部は午前6時45分、野村証券元社長の酒巻英雄容疑者を商法違反(利益供与)の疑いで逮捕し、東京拘置所に移送した。
実はこのときTBSは、酒巻がマンションから任意同行される現場を捉えることができなかった。特捜部が、「前打ち報道」の翌日にすぐ着手したからだ。

おおよその場合、強制捜査の「仕切り直しの着手」は「前打ち報道」から早くて数日後、それどころか数週間後に逮捕することもざらにある。翌日着手は極めて異例のケースであった。なぜならガサ入れのスタンバイしていた多くの検察事務官をいったん解除することは、かなりの消耗を強いることにもなり、翌日集合は負担が大きい。また前打ち報道が検察リークとの誤解を持たれないよう、間隔を空けて着手する場合が多かったのだ。

バブル時代に政権中枢を直撃した「リクルート事件」でこんなエピソードがある。特捜部はリクルート本社への強制捜査、ガサ入れを1988年「10月17日」に実施することを極秘で予定していた。「労働省ルート」の班長だった熊﨑勝彦(24期)は当日、約50人の検察事務官らを率いて、JR新橋駅前に集合していた。

しかし、ある全国紙が当日の朝刊一面トップに「リクルートを強制捜査へ」と「前打ち報道」を掲載したため、当時の東京地検の次席検事が激怒し、ガサ入れを急遽、中止したのである。連絡を受けた熊﨑らは解散して帰宅したという。最終的に強制捜査に着手したのは、1日挟んだ2日後の「10月19日」だった。

東京拘置所へ入る酒巻元社長(左)と松井検事(右)1997年5月30日

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