かつて「総会屋」という裏社会の人々がいた。毎年、株主総会の直前になると「質問状」を送りつけて、裏側でカネを要求した。昭和からバブル期を挟んで平成にかけて、たったひとりの「総会屋」が、「第一勧業銀行」から総額「460億円」という巨額のカネを引き出し、それを元手に野村証券など4大証券の株式を大量に購入。大株主となって「野村証券」や「第一勧銀」の歴代トップらを支配していた戦後最大の総会屋事件を振り返る。

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東京地検特捜部の捜査の最大の焦点は、野村証券のトップが「裏金」まで捻出して「総会屋」小池隆一に利益提供をしていた「動機」だった。
それを解き明かすカギは、1992年の株主総会に遡る必要がある。株主総会を初めて仕切る酒巻社長にとって、小池の協力がどうしても不可欠だった。その舞台となったのは自社の接待施設で行われた小池との「面会」だった。関係者の証言や捜査資料などをともに再現する。

初めての株主総会

バブル期の1991年、野村証券は損失補てんや暴力団への融資の責任をとって「二人の田淵」が退任。しかし、この「第一次証券スキャンダル」から約1年後、再び悪魔が微笑みかけてきた。
「総会屋」小池隆一は1992年、野村証券、日興証券、大和証券、山一証券に対し、「30万株」を持つ大株主として「株主提案権」の行使を通告し、揺さぶりをかけてきた。攻撃材料は前年の証券スキャンダルだった。「30万株」の購入資金は「第一勧銀」からの融資だった。

特捜部の調べなどによると、新社長になった酒巻はある日、当時の専務から小池との面会を打診される。

「社長、一回挨拶してもらませんか」

「総会屋」小池隆一は、1992年5月14日、東京・西新宿の「新宿野村ビル」の48階にある野村証券のゲストハウス「野村クラブ」を訪れた。
社長の酒巻はその一カ月後、新社長として初めての株主総会を控えていたが、前年に表面化した「第一次証券スキャンダル」を受けて、かなり厳しい株主総会になることが予想され、神経を尖らせていた。

小池のターゲットは、「第一次証券スキャンダル」の責任を取ってすでに相談役に退いていた「二人の田淵」だった。広域指定暴力団「稲川会」石井進前会長への巨額融資と、大口の法人顧客への損失補てんについて、100ページ以上にわたる分厚い質問状を、事前に送りつけていた。

これに対して酒巻社長は、自分を引き上げてくれた「二人の田淵」をいつか取締役に復帰させなくてはならないと考えていた。そのために、なんとか小池を懐柔し、質問状を撤回してもらう必要があったのだ。

このとき初対面だったという小池にまず頭を下げて挨拶した。

「初めての株主総会なので、よろしくお願いします」

酒巻は面会中、かつて証券業界の株主総会を仕切っていた「与党総会屋」で、小池が師事していた「上森子鉄」(元キネマ旬報社長)の話題を持ち出して場を和ませた。
上森子鉄は「戦後最大の黒幕」と呼ばれた児玉誉士夫に連なる与党総会屋で、三菱銀行など三菱グループに強い影響力を持っていたが、野村証券とも古い接点があった。
小池の公判で、同社と上森子鉄の関係を示すこんなエピソードを証言している。1987年4月、小池が入院中の上森の見舞いに行った際、病室に入ると上森からこう話しかけられたという。

「きょうは珍しい人間が来たんだよ。野村証券の(酒巻)専務(当時)なんだ。
(わたしが)鎌倉に住んでいたときに『K堂』という書店で本をよく買っていた。そこでちょろちょろしていたせがれがいた。ある日、田淵節也さん(大タブチ)から『食事をしましょう。珍しい人を引き合わせたい』と誘われた。後日、その会食の席で『私はK堂のせがれなんです』と自己紹介されたのが酒巻さんだったよ」(公判記録より)

話を「野村クラブ」での面会に戻す。酒巻社長は上森の話題でしばらく「場持ち」させたあと、小池にこう切り出した。

「質問状を撤回して、株主総会の議事進行に協力していただけないでしょうか」

これに対し小池はこう答えた。
「運用がうまくいってないですね、儲けさせてくれませんか」

バブル崩壊後の株式市場は地合いが悪く、小池は損失が拡大して不満を抱いていた。小池の要求ははっきりしていた。つまり、質問状を撤回しろと言うのなら、交換条件として「一任勘定取引で儲けさせろ」ということだ。「一任勘定取引」とは前述の通り、すべて任せるから、とにかく何があっても利益が出るように処理しろ、という脅しである。

だが、前年(1991年)の「第一次証券スキャンダル」を受け、証券取引法では「一任勘定取引」や「損失補てん」は禁じられていた。商法の利益供与にも「罰則規定」が定められていた。

もし、株主総会で「第一次証券スキャンダル」を小池に攻撃されると、当事者だった「二人の田淵」の取締役復帰人事が困難になってしまう。とにかく「二人の田淵」をカムバックさせるレールを敷くためには、小池を絶対に怒らせてはいけなかった。

のちの裁判で、小池隆一は「野村クラブ」で酒巻社長から次のように説明されたと証言している。

「小池さん、すべてわかってますから。私は代表取締役です。私が言うことは会社の約束です。部下にすべて任せてます、部下のいうことは私の言うことです」

小池は酒巻社長との面会によって、「儲けさせてくれる密約」が成立したと受け止めた。のちに酒巻社長は、国会の参考人招致で、「相手が総会屋であることを認識していたのか」と問われ、「そのような方だろうなとは思っていました」と小池に会ったことを認めた。さらに特捜部の取り調べにこう供述していた。

「小池さんに黙ってもらうためには、儲けさせるしかないと思った」

社長になって初めての株主総会を乗り切るために、小池対策として、株取引で継続的に利益を提供することを約束せざるを得なかったのだ。

小池が訪れた「野村クラブ」 東京・西新宿(当時)

小池隆一の圧力

小池隆一と野村証券の付き合いは1985年に遡る。小池は自ら主宰する「総会屋グループ」の39人の名義で、野村証券株あわせて「39,000株」を購入。

1989年には「小甚ビルディング」の口座開設に先立って、まず「弟」名義で野村証券株を「30万株」取得した。このときは野村だけでなく日興証券、山一証券、大和証券の株も「30万株」ずつ購入、4大証券の大株主となった。「小池が30万株を保有している」ことを聞いた時のことを、酒巻はこう供述している。

「(小池が)闇の中からじっと凝視しているような深くて広い恐怖感」

その購入資金となったのは「第一勧銀」六本木支店からの「31億円」の融資だった。もちろん事実上、無担保融資だった。第一勧銀はその後も小池への融資を拡大し、事件発覚直前の1996年までに「約70億円」が焦げ付いたとされる。
この融資の口利きをしたのが後述する「木島力也」だった。戦後最大の黒幕「児玉誉士夫」の側近とされた大物総会屋だ。木島力也は財界のフィクサーとも言われ、第一勧銀の歴代トップと親交を続けていた。

小池が取得した「30万株」がどれほどの規模かと言えば、当時の有価証券報告書によると酒巻社長が保有していたのはせいぜい「6万9,000株」で、他の取締役でも数万株程度とされる。小池の「30万株」というのは「株主提案権」を持つ圧倒的な大株主であり、取締役解任などを提案する権利もあるため、脅威であった。

結果的に1992年の株主総会は、議事進行も円滑に進んだことから、わずか1時間半弱で平穏に終了したという。小池も会場に姿を見せることはなかった。
東京地検特捜部は株主総会直前にセットされた「野村クラブ」の面会は、明らかに株主総会対策のためだった疑いが強いと判断した。

続く翌年の1993年、小池の実弟名義の「小甚ビルディング」の口座が開設され、株式担当のM常務の管理により「一任勘定取引」での利益提供がはじまったのだ。

しかし、その後は相場の地合いも悪く、損失が出るようになると、小池は総務担当のF常務にも、激しい口調で圧力をかけた。

「相場の中だけでのんびりやっている場合ではないでしょう。いろいろやりようがあるじゃないですか!損失があればお宅でちゃんと埋めてくださいとお願いしてありますが、おわかりでしょう」

特捜部の調べによると、F常務から相談を受けた社長の酒巻は「小池を怒らせると株主総会で何をしてくるかわからないので、M常務と相談してうまく頼む」と指示したという。

総会屋・小池隆一(1997年) 
第一勧銀 六本木支店(当時)

現金をくれてやる

そして問題の1995年の株主総会、「二人の田淵」を取締役に復帰させることが最大の案件となっていた。

「社長の酒巻は自分を社長に推挙してくれた「二人の田淵」に恩義を感じ、経営復帰によって両田淵の名誉回復を図りたいと考えていた。前年の1994年には大蔵省証券局に赴き、両名の取締役復帰を打診していた」(元特捜検事)

しかし、「総会屋」小池が立ちはだかった。前述の通り、それは株主総会の3カ月前、あの地下鉄サリン事件から4日後の1995年3月24日のことだった。

検察側は冒頭陳述でこう指摘している。

「酒巻は、小池本人と同人が率いる闇の勢力が株主総会に乗り込んできて追及すると、念願の両田淵の復帰も実現しなくなる恐れが高いと考え、利益を供与する以外に総会を乗り切る方法はないと決意した」

野村証券から小池に対する損失補てんは、通常は「口座」の「付け替え」で行っていたが、相場の下落が続き、それでは追いつかない状況になっていた。

特捜部の調べによると、酒巻らは悩んだ末、こう決断する。

「小池に現金をくれてやるしかない」

「現金」を直接渡して、損失補てんするしか手段がなかったのだ。苦肉の策だった。

その「現金3億2,000万円」の受け渡しのやりとりは、第7回で述べた通りだ。

結果的に、小池の要求に応じることで、1995年の株主総会は予想に反して混乱なく乗り切り、二人の田淵は、取締役として経営の第一線に無事に「カムバック」したのであった。

つまり、小池に対する「現金3億2,000万円」は、「二人の田淵」の取締役復帰を目的に、株主総会を円滑に乗り切るための協力への見返り、謝礼だったのだ。総会屋への利益供与(商法違反)事件としては、過去最高となる摘発額となった。
第一勧銀、4大証券から小池に流れた資金は、時効が成立していない分だけでも「124億円」に上ったが、現ナマが露骨に動いたのはこのときだけだった。(敬称略)

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

◼参考文献
村山 治「特捜検察vs金融権力」朝日新聞社、2007年
村山 治「小沢一郎VS特捜検察20年戦争」朝日新聞出版、2012年
立石勝規「東京国税局査察部」岩波新書、1999年
尾島正洋「総会屋とバブル」文藝春秋、2019年
森功「平成経済事件の怪物たち」文藝春秋、2013年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年

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