太平洋戦争末期、尖閣諸島の沖合いで米軍の攻撃を受けた疎開船の犠牲者らを悼む慰霊祭が石垣市で行われました。

八重山地方では沖縄戦の組織的な戦闘が終結したとされる1945年6月23日以降も
米軍の攻撃が止まず、戦火を逃れようと石垣島から台湾に向けて出港した疎開船2隻が7月3日に空襲を受けました。


1隻が沈没、もう1隻は魚釣島に漂着し餓死者が出るなど、80人あまりが犠牲になりました。

3日、石垣島にある慰霊碑の前で慰霊祭が開かれ、遺族など関係者35人が参列し、遺族会の宮良芳明会長が「戦火から逃れて安全な場所に行くはずだった行動が悲惨な結果を招き痛恨の極み。語り継いでいかなければならない」と挨拶しました。

▽祖母と兄姉を亡くした玉代勢道子さん(78)
「生きていてくれたらよかったな、私の兄、姉や祖母も。本当に平和であってほしいと思います」



遺族会は2002年に慰霊碑を石垣島に建立し毎年、攻撃を受けた7月3日に慰霊祭を
行っています。(吉田永吉)

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