かつて「総会屋」という裏社会の人々がいた。企業の弱みにつけ込み、株主総会に乗り込んで経営陣を震え上がらせる。毎年、株主総会の直前になると「質問状」を送りつけて、裏側でカネを要求した。
昭和から平成にかけて、たったひとりの「総会屋」が、「第一勧業銀行」から総額「460億円」という巨額のカネを引き出し、それを元手に4大証券の株式を大量に購入。大株主となって「野村証券」や「第一勧銀」の歴代トップらを支配していった戦後最大の総会屋事件を振り返る。のちに捜査は政治家への利益供与、そして大蔵省接待汚職事件に発展したーーー
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事態は急展開する。それまで一貫して疑惑を強く否定していた野村証券が、1997年3月6日に突如として利益供与を認めるに至った。しかし、同社は「元常務2人による犯行」で「会社ぐるみではない」と強調した。熊﨑特捜部長は、事件の端緒をつかんだ「SEC」証券取引等監視委員会と合同で、ガサ入れ(強制捜査着手)の方針を固め、当日を迎えた。ところが、直前になって思わぬ「横やり」が入っていたのだ。今だから明かされるトラブルの内幕とは。
酒巻社長が引責辞任
「自白会見」から1週間後の1997年3月14日、野村証券は「総会屋」への利益供与の責任をとって、酒巻英雄社長が、引責辞任に追い込まれる。
その数日前には利益供与に直接関わったとして2人の常務の退任を発表していた。同社は「第一次証券スキャンダル」で退任した前任の田淵義久に続いて、社長が2代続けて不祥事で辞任することになった。
酒巻は内部告発者をどう思うかと質問され、こう答えた。
「同じ釜のメシを食った仲間に告発されて残念だ」「まず、私に言ってほしかった・・・」
その酒巻社長が辞任した翌週の3月25日、ついに「SEC」と熊﨑特捜部長率いる東京地検特捜部は合同で、電撃的に東京・日本橋にある野村証券本社への強制捜査に乗り出した。
神田川の支流、日本橋川沿いに建つ7階建て。その景観から「軍艦」ビルと呼ばれ、1階が石張り、2階以上がダークブラウンの外壁、最上部が白塗りという3層になっている。その「世界のノムラ」を象徴する拠点に家宅捜索が入った。
捜索容疑は「野村証券が、株主総会を円滑に進めるため、総会屋の小池隆一に協力を依頼した見返りに、株取引の損失を補てんした」という商法違反(利益供与)と証券取引法違反(損失補てん)だった。
東京地検特捜部と「SEC」は、特別調査官や検事、検察事務官ら約180人を動員して、日本橋にある野村証券本社の他、酒巻元社長の広尾の自宅や小池の事務所など数十カ所を家宅捜索、段ボール箱900個に及ぶ資料を押収した。
「強制捜査を延期できないか」
野村証券へのガサ入れ(強制捜査)が年度末の1997年3月25日に決まったのはどうしてだろうか。意外な理由があった。
「法務・検察は4月に定期異動があり、マスコミも『まさか3月下旬にガサをするとは思わないだろう』というのが一つの理由だったと思う」(粂原研二 32期 現弁護士)
実はこのとき、野村証券への強制捜査、ガサ入れをめぐって、事前に「検察」と「SEC」の間で、一悶着あったことが、当時の関係者への取材で新たにわかった。
特捜部が着手のスタンバイに入っていた当日の朝、特捜部と合同で捜索を行うことになっていた「SEC」のある幹部から検察幹部に対して、突然の「申し入れ」があったという。
「こんな決算期末の時期に、業界トップの野村証券の強制捜査に乗り出したら、株価が下がるだろう。株価が下がると、保有株式の損失が増えて、各企業の決算に悪影響がでてしまうじゃないか。強制捜査着手を延期できないのか」
当日、石川検事正からの電話で「SEC幹部の陳情」を知った特捜部長の熊﨑は激怒した。
「強制捜査は、ビンパクさん(SEC水原敏博委員長)にも事前に了承をもらっている。事件を潰す気なのか!」
強制捜査着手が延期になれば、当然、野村証券側が捜査の動きに気づき、証拠隠滅をする恐れもある。特捜部は、現場の意向を無視した「捜査妨害」だと受け止めた。実は当日、「SEC」でもこんなことが起きていた。当時、特捜部から「SEC」に出向していた粂原は振り返る。
「SECでは強制捜査着手を予定していた当日、水原委員長が「委員会」を開催した。委員会は東京地検と合同で強制捜査を行うことを了承した。委員会が了承しないとガサ入れはできないため、了承を受けて、特別調査官に東京・日本橋の野村証券本社ビルへ向かってもらった。しかし、SECの事務局幹部の大蔵キャリアが、急な話に驚き、なかなか委員会に出てこなかった」
もちろん、大蔵キャリアには直前まで強制捜査のタイミングは知らされていなかった。
「東京地検特捜部と証券取引等監視委員会の合同の強制捜査着手ということで、情報が漏れるのをおそれ、「捜索差押許可状」の請求手続きは、SECで本当に信頼できる数名の部下だけに事情を説明し、準備してもらっていた」(粂原)
当日の朝、検察幹部に「ガサ入れ(強制捜査)の延期」を申し入れをしてきたのは大蔵省から「SEC」に出向していた「大蔵キャリア」だった。当時、「SEC」はまだ大蔵省内の組織(のちに金融庁に所属)ではあったが、この「大蔵キャリア」はわざと、当日の委員会に出席せず、その間に、検察幹部に「ガサ入れの延期」を「陳情」していたのだ。
「大蔵キャリアは自分の『本籍地・大蔵省』に気を遣い、行政的に配慮したというアリバイを残すためだったと思う。水原さんにも知らせずに検察に申し入れていた」(関係者)
水原も大蔵キャリアの態度に憤慨した。
「水原さんはSEC幹部の大蔵キャリアが当日の委員会に出てこなかったことに相当、怒っていた。大蔵キャリアは親元に気を遣ったのだろう」(粂原)
熊﨑も家宅捜索(ガサ入れ)に早く着手したいと考えていた。熊﨑はこれまで「家宅捜索」と「身柄逮捕」を同時に着手する捜査スタイルをとってきたが、今回はガサ入れを先行させた。その理由をこう話していた。
「端緒をつかんだSECとの合同捜査ということもあるが、事件の特徴として、株式取引に関わる専門的で複雑な要素が絡んでいたため、なるべく早い時期に、幅広く証拠をおさえておく必要があった」
通常、ガサ入れと同時に身柄逮捕まで踏み切るときは「相手が否認しても、起訴できるだけの証拠」を持っていることが求められる。そういう意味で、3月25日の段階では、野村証券幹部については、実際に呼び出して事情を聴かないとわからない部分もあり、身柄逮捕までは機が熟していなかったと見られるが、まず証拠物を早く押収しておく必要があったのだ。
「特捜の事件というのは、ある程度の期間、潜行して、ある時期に一気にふわっと浮き上がることに意味がある。ガサ入れ(強制捜査着手)をやるときには7割くらいは、証拠が固まっていて、見通しが立って次の事件が見えていないといけない。内偵捜査の中で、ほかの証券会社も小池への利益提供があるだろうと予測もついていたが、野村証券はSECが前年の夏からずっと調べていて、ある程度、立件の見通しも立っていたから、まず野村を最初にやった」(当時の特捜幹部)
検察幹部は「大蔵キャリア」からの「ガサ入れ延期」の申し入れを拒否し、野村証券への強制捜査にゴーサインを出した。
ただ、特捜部は当日の株式市場への影響も考慮し、午後3時の東証マーケットの取引終了を待った。そして「SEC」と特捜部が「合同」で180人を動員し、隊列を組んだ部隊がようやく東京・日本橋の野村証券本社の強制捜査に着手し、家宅捜索に踏み込んだ。捜索が始まったのは午後4時23分、空は夕暮れを迎えようとしていた。
家宅捜索は深夜まで及んだ。そして野村証券はその後、さらに幹部の逮捕や再逮捕により数回にわたって家宅捜索を受けることになる。
現場の野村証券本社ビルにいた西川記者(TBS)はこう思った。
「現場で待機していたが、夕方にさしかかり、その日に強制捜査が行われるかどうか、正直なところ半信半疑だった。すると間もなく報道陣が集まり始め、これまで見たことのない人数の捜査員が怒涛のように押し寄せ、一斉に野村証券の正面玄関から入っていった。それまでマスコミでは『大蔵省』や『野村証券』などは聖域とされ、捜査のメスが入ることはないと言われていた。その常識が目の前で一気に崩れ去った瞬間だった」
当時、業界のリーディングカンパニーである「野村証券」に特捜部のメスが入るようなことは考えられない時代だった。のちに小池の資金源となっていたことが発覚する「第一勧業銀行」への強制捜査も前代未聞のことだった。「これまで感じたことのない異常な緊張感が相当長く続いた」(元特捜検事)
さらに4月の検察の人事異動で、かつて熊﨑副部長時代に「ゼネコン汚職事件」を経験した多数の検事が特捜部に戻り、これから始まる空前絶後の事件捜査に加わることになった。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
◼参考文献
村山 治「特捜検察vs金融権力」朝日新聞社、2007年
村山 治「市場検察」文藝春秋、2008年
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