昭和から平成期にかけて、反社会勢力である「総会屋」のビジネスを、日本を代表する証券会社が「一任勘定取引」で支えていた時代があった。さらにその資金は驚くべきことに日本を代表するトップバンクの「第一勧業銀行」が融資していたのであった。

この、総会屋に対する利益供与事件は、4大証券、第一勧銀など日本を代表する企業が相次いで摘発される中で、関係者の自殺が相次いだことも事実である。
キーマンの「自殺」は、捜査が行き詰まる一方で、捜査手法への批判を招くことにもつながりかねない。被疑者や参考人を追い込まないよう配慮していても、想定外のことは起きる。
今だから明かせる関係者の証言から、宮崎元会長の自殺をめぐる捜査の舞台裏の一端を描く。

「大物総会屋」と「第一勧銀」

「総会屋の元出版社社長の『呪縛』が解けず、歴史のふちにわだかまった「おり」から決別できなかった」

1997年5月23日、東京・内幸町の第一勧銀本店22階、辞任を表明した頭取はこう語った。元出版社社長というのは前述の通り、大物総会屋、木島力也のことである。
第一勧銀は、すでに小池隆一側への「117億円」の不正融資が明らかになり、本店などが特捜部の家宅捜索を受けていた。会見には当時会長の奥田正司もいた。
頭取の口から出た「呪縛」という言葉は、第一勧銀と総会屋の関係を象徴する言葉として、当日夕方のニュース番組のトップ項目の「見出し」に踊った。「呪縛」は1997年を象徴するその年の「流行語」にもなった。

第一勧銀から小池隆一への巨額の不正融資。この事情を知るキーマンは相談役で元会長の宮崎邦次と、前会長の奥田正司だった。総会屋との関係を断ち切れなかった「呪縛」をひもとく捜査のカギはこの2人が握っていた。

そもそも小池隆一が「第一勧銀」に深く食い込むことになった起点は、1988年の株主総会に遡る。この株主総会で「頭取」に就任したのが宮崎だった。宮崎が頭取に就任した背景には、小池が師事していた財界のフィクサーで大物総会屋「木島力也」の推薦があったとも言われている。
当時、麹町支店の不祥事やスキャンダルを抱え、株主総会が紛糾しないかと不安に感じていた「第一勧銀」は、小池に円滑な議事進行への協力をこう依頼した。

「ほかの総会屋(野党総会屋)の動きをおさえてもらえませんか」

「第一勧銀」から依頼を受けた小池は「野党総会屋」を封じ込め、「与党総会屋」としての影響力を強めることになり、その翌年の1989年から不正融資がはじまったのだ。同社は小池が野村証券株など4大証券株120万株を購入した際の「31億円」も融資していた。

そもそも木島は「第一銀行」と「日本勧業銀行」が合併して「第一勧銀」が誕生したときに、裏で仲介役を果たしたとされる。そのため、合併を成功させた第一勧銀初代会長の井上薫とは深い親交があった。宮崎はその井上薫の秘書役を務めており、木島の長男の結婚式に出席していたことも国会で追及され、出席していた事実を認めていた。

「結婚式に出たことは事実です。(木島さんの)ご子息が当行と密接な取引先の会社に勤めており、喜んで出席した」(1997年5月28日 参院予算委員会)

木島の長男は当時、神戸製鋼に勤務、結婚披露宴はホテルオークラ「曙の間」で行われ、宮崎はメインテーブルに国会議員のE議員らとともに座ったという。前述の通り、宮崎が頭取になってからは、第一勧銀幹部が木島を囲んで、年二、三回マージャン大会を開くようになり、総務部門も同社の歴代最高幹部が木島と親密であることは認識していた。木島は日頃から「何かあったら、隆ちゃん(小池隆一)に頼めばいい」と弟子の小池を引き立てた。

小池は法廷ではこう弁解していた。

「わたしは木島のダミー、かばん持ちだった。木島と第一勧銀の話し合いのなかで敷かれた事件の路線に従い、木島の指示で動いたにすぎない」

宮崎元会長の死

第一勧銀の元会長、宮崎邦次(当時相談役)が自宅で自殺しているのが見つかったのは、1997年6月29日の朝だった。
宮崎は救急車で三鷹市内の杏林病院に運ばれたが、意識不明のまま、午後5時59分に死亡した。67歳だった。くしくもその日は、9年前に第一勧銀の頭取に就任した記念すべき日でもあった。

東京地検特捜部はその2日前から、宮崎と前会長の奥田正司から任意で事情を聴いていた。メディアを避けて帝国ホテルに泊まっていた宮崎と奥田は、ホテルから検察施設に出向き、昼すぎから午後9時頃まで事情聴取を受けた。
検事からの質問は「1992年9月4日の東京・銀座の料亭”吉兆での会談”」に集中していたという。この会食の席で、宮崎と奥田は木島力也と会い、不正融資を約束したとされるからだ。つまり小池隆一に対する巨額の資金提供の決め手となった会食だった。
だが、宮崎は特捜部の調べに対し、「記憶にない」と否認していた。

6月28日の事情聴取のあと、宮崎はいったん「帝国ホテル」に戻り、弁護団に検察から聴かれた内容を報告し、そのあと1週間ぶりに三鷹市の自宅に帰っていた。

自宅から数通の遺書が見つかり、第一勧銀宛ての遺書にはこう綴られていた。

「今回の不祥事について 大変ご迷惑をかけ、申し訳なくお詫び申し上げます。 真面目に働いておられる全役職員、そして家族の方々、先輩のみなさまに最大の責任を感じ、かつ当行の本当に良い仲間の人々が逮捕されたことは、 断腸の思いで、 6月13日の相談役退任の日に、身をもって責任を全うする決意をいたしました。 逮捕された方々の今後の処遇、家族の面倒等よろしくお願い申し上げます。すっきりした形で出発すれば素晴らしい銀行になると期待し確信しております。例年のご交誼に感謝いたします。 宮崎」

第一勧銀の「闇」を知るキーマンの自殺に、特捜部は大きな衝撃を受け、意気消沈した。自殺による捜査への影響は常に大きく、捜査手法への非難が集まりかねない。

宮崎を取り調べていたのは北島孝久(36期)だった。北島は熊﨑の「秘蔵っ子」と言われ、「金丸信巨額脱税事件」で金丸の次男の取り調べを担当するなど信頼も厚く、すでに法務省刑事局に異動していたが、熊﨑の強い希望で一連の捜査に応援として加わっていた。

そうした中、宮崎が自殺した翌日、第一勧銀の弁護団から検察幹部に「抗議文」が届く。
第一勧銀の弁護団長は大物検察OBの村田恒弁護士(10期)だった。村田はかつて「ロッキード事件」丸紅ルートの捜査に携わり、丸紅専務から「田中総理が関与している」との核心の供述を引き出した敏腕の元特捜検事だった。検察庁が主宰する若手検事への捜査研修セミナーでは村田が講師としてよく招かれていた。

「耳を覆いたくなるばかりの恫喝的な捜査、取り調べの内容、調書の作成方法などに、行き過ぎがなかったか、謙虚に猛省し、第二第三の犠牲者を出さないためにも、その改善を強く要望する」(抗議文より)

村田の抗議文は、宮崎の自殺の原因があたかも「過酷な取り調べ」であるかのような内容だった。

東京地検検事正の石川達紘、次席検事の松尾邦弘はこれに激怒した。

「事実とまったく違う。許せない」

石川や松尾ら検察幹部は、弁護団からの抗議文を受け取る前に、宮崎が残していた第一勧銀弁護団にあてた遺書の内容をすでに確認していたため、抗議文の内容が「言われのない主張」であることをわかっていたからだ。

実際に宮崎の遺書にはこう書かれていた。

「今回の愚挙は自分への取り調べとは関係ありません。わたしを取り調べた北島検事に感謝の念こそあれ、不満など全くありませんでした。北島検事は紳士的で好感が持てました」

宮崎は死の直前まで、いわば敵対していた検事への配慮も忘れなかったのである。

「遺書」を見た特捜部長の熊﨑も、北島が誠実に、真摯に取り調べをしていたことを改めて確信する。

特捜部の現場は弁護団の行動に、怒りがこみあげた。宮崎と同時に事情聴取を進めていた「奥田前会長の捜査への不当な圧力」であり、「根拠のない捜査妨害」だと受け止め、第一勧銀の最高責任者である奥田前会長の関与について捜査を続けた。 

村田弁護士は晩年、このとき検察に抗議したことについてこう語った。

「一流企業の幹部にはそれにふさわしい取り調べの方法があるのでは、という意味で提出した。自殺の原因を追及するつもりは毛頭なかった。特捜部に愛情があるからこそだった」

第一勧銀弁護団長・村田恒(10期)

北島検事の「最後の言葉」

宮崎元会長の自殺を知った北島は、すぐに東京拘置所に駆け付けた。北島は自分のことより後輩の中村信雄(45期)のことが心配だった。宮崎が木島と同席した「吉兆会談」が、不正融資のきっかけとなったという核心の自白を、総務部長から引き出したのが中村だったからだ。
総務部長は当日、宮崎の送迎のために同乗しており、「吉兆会談」を知りうる立場にいた。総務部長の供述により、「吉兆会談」を契機に宮崎の指示で、第一勧銀から総会屋への「う回融資」が始まったことが明らかになったのだ。

中村は「宮崎の自殺」を聞いて「自分が総務部長から聞き出した供述が、宮崎を自殺に追い込んだのでは・・・・」と目の前が真っ暗なり、冷静さを失っていた。中村は平常心を失い、取り調べができる状態ではなかった。

北島は中村に会うなり「中村くん、すまない」といきなり頭を下げた。

「宮崎さんがあまりにも衰弱していた。自宅はマスコミが張っていたので、宮崎さんはホテルに宿泊していた。その日は嵐で、マスコミもいないと思い、弱っている宮崎さんを励まそうと、『きょうは嵐でマスコミもいないはずだから、たまには自宅に戻ってゆっくり過ごされたらどうですか』と言ってしまった。
まさか自宅で自殺などということは思いもよらなかった。気配りの宮崎と呼ばれるような人だから、第一勧銀と関係の深い帝国ホテルにそのまま安心して宿泊を続けていれば、あるいは死ななかったかも知れない。私が、余計なことを言わなけば・・・」と次の言葉を飲み込んだ。

そして「中村くんはどうだ、大丈夫か、担当している総務部長はどうだ、心配ないか」と声を絞り出した。

宮崎の訃報は、東京拘置所で調べを受けていた第一勧銀の幹部らにも大きなショックを与え、涙が止まらず、しばらく取り調べを拒否する幹部もいた。

北島は誰より自分が、計り知れない衝撃を受けているなかで、中村や、「吉兆会談」の事実を中村に自供してくれた総務部長のことを心配していた。その心遣いが身に染みたと振り返る。
中村は「まだ総務部長には宮崎さんの件を話せていません、何と言っていいか・・」と答えるしかなかったが、北島は親身になって中村に寄り添い、総務部長への対応についてきめ細かいアドバイスをくれた。中村は北島の言葉を忠実に実行し、何とか落ち着きを取り戻し、苦しい局面を乗り切ることができた。

宮崎の死去から5日後の7月4日、特捜部は最後まで否認していた第一勧銀の奥田前会長をついに逮捕した。(のちに有罪確定)奥田は宮崎とともに「吉兆会談」に同席し、わずか数カ月前まで会長として最高権力者の立場だった。熊﨑は奥田の取り調べ検事に、第一勧銀捜査班を率いる大鶴基成(32期)を指名した。

熊﨑は不測の事態のなかで、奥田の自供を確信し、大鶴にこう言った。

「最後はおまえがやってくれ。奥田はぜったいにしゃべるから大丈夫だ」

熊﨑の言った通り、大鶴の取り調べに対して奥田は容疑を認めたのであった。熊﨑の判断は、宮崎の死を受けた奥田の心情を読み切っていた。
宮崎を取り調べた北島はその後、特捜部副部長を務め「ライブドア事件」や「西武鉄道証券取引法事件」などを手掛け、堤義明の取り調べも担当した。2006年に退官し、弁護士として「熊﨑勝彦法律事務所」に所属した。その後、先に弁護士となっていた中村の法律事務所にパートナー弁護士として所属することになった。

そんな北島は59歳のとき病魔に襲われ、2015年に食道がんで死亡した。天才と呼ばれた検事の若すぎる死だった。中村は訃報を聞く2ヶ月前頃から北島の体調が悪そうだったため、心配していたところ、実は入院していると聞かされた。心配してお見舞いに行きたい旨を願い出たが、北島から「心配ない」の一言ではねつけられたという。

「最後まで、誰にも弱っているところを見せたくなかったと思う」(中村)

訃報を聞いた中村は「一言も言わずに逝ってしまうのはみずくさい、あまりじゃないですか」との思いが込み上げたという。
しかし、そんな思いも北島の妻から聞いた話で消え失せた。

中村は北島の妻から、「中村くん、すまない」というのが夫の最後の言葉だったと聞かされた。偉大な先輩を失った喪失感で涙が溢れた。

北島孝久検事(36期)

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光
■参考文献
村山 治「市場検察」文藝春秋、2008年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
村串栄一「検察秘録」光文社、2002年
産経新聞金融犯罪取材班「呪縛は解かれたか」角川書店、1999年

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