6月27日で発生から30年を迎える松本サリン事件。
当時現場の最前線でサリンと対峙した医師たちがいます。
次の世代に伝える教訓とは?
30年目の証言です。


「ピーポーピーポー」
「下がって!下がって!」

1994年6月27日・深夜。

松本市北深志の住宅街で猛毒のサリンが噴霧されました。

岩下具美(いわした・ともみ)医師:
「たくさんの人が具合悪いということと、どこからどういう情報だったのかわかりませんけれども、一酸化炭素中毒という言葉が聞こえてきました」

岩下具美医師・60歳。

あの日、事件の現場で活動した、ただ一人の医師です。

当時は、信州大学病院の脳外科医。

午後11時過ぎ、救急対応のポケットベルが鳴りました。

岩下具美医師:
「一酸化炭素中毒であれば、治療法というのもありますので、複数名を受け入れる医療機関を分散して手配すればいいのかななんてことをイメージしながら行きました」

「ピーポー」

最初の通報からおよそ1時間後、岩下医師はドクターカーで現場に到着。

まず目にしたのは、大勢の住民が路上で苦しむ姿でした。

岩下具美医師:
「50人ほどはいたんじゃないかと思います。たくさんの傷病者が目の前にいましたけれども、それ以上に大変な人がいるんではないかなという判断で、部屋の中に入ったところ、それ以上の大変な人がいたもので、その方々を優先的に診療させてもらった」

災害発生時などに、重症度に応じて治療や搬送の優先度を判断する「トリアージ」。

このとき、日本ではまだ浸透していませんでした。

しかし、医師としての直感が重症者の発見につながり、命を救いました。



一方で、救急医療態勢の未熟さも突き付けられたといいます。

岩下具美医師:
「消防を通して他の医師の派遣を呼びかけたんですけれども、実際のところ伝わってなかったかもしれないし、伝わっていたとしても、現場に医療を投入するという概念がその当時ありませんでしたので、翌日の朝まで私1人でいたというような状況です」

岩下医師は、その後「救急医療」の専門医の道へ進みます。

2011年には、県内2台目となる信大病院へのドクターヘリの導入に尽力。

御嶽山の噴火災害や台風19号災害では、災害派遣医療チーム「DMAT(ディーマット)」として現場で活動しました。

今は、長野市の長野赤十字病院で、救急センター長を務めます。

岩下具美医師:
「たくさんの患者さん、傷病者いましたけれども、それを目を背けないで対応できたっていうのは、すごく今に生かされてるのかなと」

1人でも多くの命を救うために、何ができるのか。

松本サリン事件と向き合った岩下医師の揺るぎない信念です。

岩下具美医師:
「しょうがないんだって言ってしまえばもうそれ以上はないと思いますので、少しでも変化が起こるように頑張っていければというふうに思います」

2018年、富山大学。

「縮瞳(瞳孔が縮小)しているのは異常なんですよ、救急隊は気づいたんだけど何を意味するのか分からなかったんですね」

事件と向き合った経験を次の世代に繋ぐ医師がいます。

奥寺敬(おくでら・ひろし)医師。

事件当時、信大病院の救急部で搬送された患者の治療にあたりました。

20年にわたって大学で、医学を志す学生にサリン中毒の症状や化学テロの脅威について、伝え続けてきました。

中でも強く訴えてきたのは、「知識は凶器にもなる」ということ。

オウム真理教による一連の事件には、医師も関わっていたからです。

奥寺敬医師:
「あれはどういう事件だったかってことですね。(オウム内で)医者が手を貸した事件でもあるし、しかも危険物質を使ってるわけですよね。医学知識がなきゃ使えないわけですよ」

事件のあと、精神的なつらさも強く感じてきたという奥寺医師。

しかし次第に、ある思いが芽生えてきたといいます。



奥寺敬医師:
「(事件の)後に生まれた人たちばっかりになってから、これはやっぱり話さなきゃいかんなというのは思いましたね。知識の伝承が必要だろうと、あと経験の伝承ね」

そして、現在。

岐阜県の病院で日々、患者と向き合う傍ら、若い研修医の指導に力を注いでいます。

奥寺敬医師:
「血圧とかね、呼吸の数とか、未知の現象が来たところでやることは一緒なんで、そこをきちっとみようよって話をここでの研修医にもしてます。やはりそういう経験した人間がそのことを教えないとですね、下に繋がらない。自分の本分だと思っています」

事件の被害者の1人で第一通報者だった河野義行(こうの・よしゆき)さん。

事件後、河野さん宅の家宅捜索が行われると、報道が過熱。

その中で、図らずも渦中に巻き込まれることになった医師がいました。

鈴木順(すずき・じゅん)医師:
「私の医師人生を大きく変えた出来事でもあったと思います」

松本協立病院の、鈴木順医師。

当時27歳、医師3年目の研修医でした。

鈴木順医師:
「緊急で医局会議が開かれて、17名(翌日もう1人)入院したと。担当割るからって言われて、研修医3人でそれぞれ分担したんですね。それが始まりでした」

たまたま受け持った患者、その中に河野義行さんがいました。

ほどなくして、警察による河野さんへの事情聴取が始まります。

事件発生から2日後。

報道陣:
「事情聴取受けた男性の状態は?」
鈴木医師(当時):
「入院した時からまだ痙攣が続いていまして、発熱もあり、長時間話ができる状態ではありません」

病院前に詰めかけた報道陣の質問に答える、鈴木医師。

その様子が報道されると、世間の反応は想像を超えるものでした。

鈴木順医師:
「なぜ『犯人』を治療するのかとか、早く警察に出頭させろとかいうのが、もう診療の邪魔になるくらいかかってきまして」



いわれのないバッシングは、翌年、オウム真理教の信者による犯行が明らかになるまで続きました。

ただ、批判的な声に惑わされることはなかったと鈴木医師は振り返ります。

鈴木順医師:
「初めからあまり河野さんが犯人だとは到底思えなかったんですね。彼が取り乱さなかったことを端でも見ていたので、だから逆になんていうか、患者さんとしては、ぜひとも救いたいというか治したいというか」

「河野さん、河野さん」

河野さんの妻で事件の被害者である澄子(すみこ)さんの主治医としても診療を続けた、鈴木医師。

事件から14年後の2008年、その最期を看取りました。

鈴木順医師:
「河野澄子さんが亡くなられたときに、肩の荷が下りたのはよく覚えていて、それが私自身のサリン事件の終わりではあったんですけれど、そのとき起こったようないわゆるその冤罪未遂事件ですか。まだ何もはっきりと決まってない段階で、ヒステリーみたいな感じでね、バッシングをするというのはこの30年間あまり変わっていない」

実際に、新型コロナの流行ではSNSなどで感染者や医療従事者への誹謗中傷が起きました。

鈴木順医師:
「感情のままに発信する。ただそれでは駄目だということを強く思いますし、教訓化して、次の人に伝えるべきことはまだ残ってるんだと思っています」

一方で、経験が生かされた出来事もあったと鈴木医師は話します。

鈴木順医師:
「おそらくこの松本地域でそういった(医療機関同士が)協力する体制ができたのは(松本サリン事件が)初めてだと思うんですね。それは本当に歴史的には大きな成果があって、コロナの感染のときに“松本モデル”というふうに言われて紹介されましたけど、医療機関で本当に連携できたなというふうに思います」

松本サリン事件に直面した医師たち。

それぞれの立場で事件と向き合い、未来のために歩み続けています。

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