差別と闘ってきた在日コリアンの歴史をどう後世に残すか。30代から本名を名乗る在日2世の宋富子(ソンプジャ)さん(83)=川崎市川崎区=は半世紀余り、講演や一人芝居で全国各地を巡ってきた。最後の「夢」と訴える「多文化共生をめざす川崎歴史ミュージアム」を、多くの同胞が暮らす同区桜本につくる構想が動き出している。宋さんの人生を振り返りながら、語り継ぐべき歴史を見つめ直す。(西田直晃)

◆小学校からいじめられ…20歳までに22回転職

ミュージアム設立への思いを語る宋富子さん=川崎市川崎区桜本で

 「仲間とともに半世紀の集大成にする。みんなで見る夢は実現するから」  ミュージアム設立予定地の川崎区桜本。「こちら特報部」の取材に、宋さんはこう語った。両親ら在日1世の苦闘、差別に抵抗してきた同胞が権利を獲得した歴史を「未来の子どもたちに継承したい」との思いがあふれる。  両親は今の韓国南部の慶尚南道出身。日本に渡った後、奈良県の被差別部落で宋さんが生まれた。2歳のころ、土木工事の現場や火薬工場などを転々としていた父が死亡。廃品回収を始めた母の女手一つで、すでに嫁いでいた長姉を除く5人のきょうだいと一緒に育てられた。  小学校では、いじめに遭った。「臭いのが来た」「チョーセン」。弁当のおかずのキムチを水で洗った。線路上に体を横たえたことも。中学卒業後に就職したが、「在日」がばれては退職を繰り返し、20歳の結婚までに計22回の転職を余儀なくされた。

◆植民地ではなくなったのに…

 川崎市内で焼き肉店を営む姉の勧めで見合いし、結婚と同時に川崎区に移り住んだ。京浜工業地帯の中核をなす川崎市南部には、労働力として駆り出された同胞が多かった。  「ようやく自由になれる」と思ったのもつかの間。1男3女の子宝に恵まれたが、今度はわが子が「韓国に帰れ」と壮絶ないじめを受けた。

外国人登録証の指紋押なつ拒否運動に参加する人たち

 時は1960年代後半。国交正常化を定めた65年の「日韓基本条約」は韓国への経済支援を優先させた。植民地支配に対する謝罪はなく、宋さんは「敗戦で植民地ではなくなったのに、子どもたちの多くは植民地時代に何をしたか、どうして在日がいるか、全く教えられていなかった。家庭内で親が話すように『貧乏な韓国』とさげすんでいた」と述懐する。

◆「自分を愛するため」民族名に

 転機は31歳のとき。末っ子の長男が通っていた桜本保育園で、朝鮮半島出身で牧師でもあった園長から「自分を愛するため」、通名ではなく民族名を称するように諭された。  「劣等感の塊で、生んだ母さえ憎んでいた私は民族名の読み方も知らなかった。初めて目が覚めた」(宋さん)。集めていた着物や宝石を売り払い、購入した歴史の本を読みあさった。35年間の植民地支配の内実とともに、古代の善隣友好の歴史も知った。  「韓国人であることが悪いんじゃない。国や土地を奪うのは強盗と同じだ」。そう思うとともに誇りを取り戻し、「差別と偏見は無知から生まれる。人間が成長するには正しい歴史認識が必要だ」と考えた。

◆就職差別、指紋押なつ…抗議の輪に

 70年代半ばには「川崎子どもを見守るオモニ(母)の会」が発足。宋さんは会長を務め、民族名でもいじめに遭わないように教師と語り合った。  当時は拒まれていた市営住宅の入居や信用金庫の融資を、交渉の最前線に立ったオモニたちの力で実現した。メーカーの採用試験合格を取り消された在日2世の男性の「日立就職差別裁判」(74年に解雇無効)、80年代に高まった外国人登録証の「指紋押なつ拒否運動」(2000年に廃止)でも抗議の輪に加わった。

◆途方に暮れる母の嘆き、一人芝居で訴え

 アイゴー、アイゴー…。  スポットライトを浴び、純白のチマ・チョゴリを身に着けた宋さんが悲嘆に暮れている。一人芝居「身世打鈴(シンセタリョン)(身の上話)」。夫を亡くし、途方に暮れる母の慟哭(どうこく)から物語は始まる。

1990年代に一人芝居「身世打鈴」を披露した宋富子さん

1988年、47歳から手がけた。日本へ渡った両親、4人のわが子につながる在日3代史。女優の故新屋英子さんから心得を学び、2008年までに全国各地で480回ほど演じた。いじめや差別を明かすのはつらかったが「正しい歴史を知ってもらうため」にやり抜いた。韓国でも母国語で上演した。年を重ね、30代から続ける講演に切り替えたが、残された映像で今も鑑賞できる。 1990年代後半以降、すでに「かつての恐ろしい戦前のような風潮だ」と警鐘を鳴らしていた。愛国心を押し付けるような国旗国歌法制定(99年)、教育基本法改正(2006年)が念頭にあった。「真実の歴史が隠されれば、戦争への歩みが始まってしまう」

◆川崎に「多文化共生ミュージアム」を

 身世打鈴の終盤に「歴史会館な。うちらで建てたらええんや」というセリフがある。実際、上演後に募金を集め、朝鮮半島と日本の歴史的な関係を紹介する高麗博物館(東京都新宿区、01年開館)の設立資金のために寄付した。この名誉館長を退いた宋さんの最後の「夢」が、周辺に約4千人の同胞が暮らす桜本でのミュージアム設立という。  「日本の状況は変わってきた」と感じる。近所の保育園では園児のルーツが7カ国に及ぶ。仲間と話し合い、「マイノリティーは在日に限らない。『多文化共生』を理念に据える」と決めた。

宋富子さん=1990年代で

 このミュージアムは、在日コリアンの集住の背景のほか、差別や偏見と格闘してきた歴史、人権を尊重するまちづくりの歩みなどを伝える展示内容を想定。中国やペルーといった外国につながる人々の足跡にも触れ、多様な立場の人が交流する場を設ける。市民や識者でつくる設立委員会は30年ごろの開設を目指す。  手本になるのが、昨年4月に開所した「大阪コリアタウン歴史資料館」(大阪市生野区)だ。この地域には韓国南部・済州島にルーツを持つ在日コリアンが集住しており、社会見学や歴史学習などで訪れる若い世代も多い。「共生」を理念に掲げ、今年2月にすでに来館者は1万人を超えた。

◆マイノリティーの社会貢献を可視化

 こうしたミュージアムが持つ意義について、東京造形大の前田朗名誉教授(戦争犯罪論)は「差別、排除されてきた人々がどう社会に貢献してきたか。その点が可視化される」と語る。  「マイノリティーの在日外国人は、多様性を生む新たな文化の担い手、社会資本の整備に欠かせない労働力の供給者として、見過ごされがちだが地域社会の発展に寄与してきた。再評価の流れができれば、かつての加害者との和解を促す場にもなり得る」

ミュージアムの設立趣意書と賛同者に向けたニュースレター

 高齢化が進行する在日コリアンを巡っては、歴史を「記録する権利」は特に重んじるべきだという。在日本朝鮮人人権協会の調査によると、昨年の高齢化率は朝鮮籍が46%、韓国籍が29・6%に達した。

◆「地域の小中高生が正しい歴史を学べる場に」

 前田さんは「日本に渡った在日1世は日本語ができず、自分の言葉で歴史を残せなかった。親世代の差別や苦難を目撃してきた2世も高齢化が進む。1世の聞き語りや自分自身の体験、コミュニティーの記録を残す使命感は強い」と話す。  宋さんの決意も固い。「地域の小中高生が正しい歴史を学べる場にしたい。18歳が選挙権を持つ時代。歴史を学べば、政治には無関係でいられないと知り、若者の投票率も上がる」。腰は曲がったが、目標は「90代まで講演を続ける」。意気込みはなお盛んだ。

◆デスクメモ

 差別の痛みを記録することは「何をしてはいけないか」を可視化し、同じ事態を繰り返してはならないという意識を広める。差別に抗した足跡を記録することは似た立場の人に勇気を与えることになる。加害から目を背けたい面々は記録を怠りがちだが、その意味こそ重く捉えるべきだ。 (榊) 

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