九州の北西部に位置する有明海。27年前に海の一角を閉め切った公共事業が、この海を変えました。今なお悪化し続ける海の状況と、長きにわたる国との闘い。苦悩する漁業者たちを追いました。

ノリ漁師「“死の海”に近づいているのではないか」

九州の北西部に位置する内海・有明海。2月から3月にかけて、名物・有明ノリの収穫が最盛期を迎えるが、佐賀県西側の漁場では、ここ数年、深刻な状況が続いている。

佐賀・鹿島市のノリ漁師 中村和也さん
「病気まで一緒に入ってしまって、色落ちと同時に。こんなにノリが伸びないのは初めてですね。30年ぐらいしてきて、こんなノリ初めて」

赤潮の発生により栄養が不足し、なかなかノリが伸びない。色落ちもあり、アカグサレ病という病気も出た。

ノリ漁師 中村和也さん
「不安どころか、もう廃業したいと思いますよね。海が良くなる見込みが全然ないし。もうノリだけじゃない。魚も貝もとれないからですね。『死の海』に近づいているんじゃないかって思っている」

干潮と満潮の差は、最大6メートルにもなる。日本の干潟の約4割を占める広大な干潟に支えられ、有明海は、かつて「宝の海」と呼ばれていた。

宝の海の象徴だった、高級二枚貝「タイラギ」。

元タイラギ漁師 平方宣清さん
「2時間で100キロとかとれました。その当時、キロあたり2000円ぐらいだったでしょうかね。ですから20万円ぐらい」

そこに持ち上がった「国営」諫早湾干拓事業。通称「イサカン」。2530億円をかけ、有明海の一部である諫早湾の奥を「潮受け堤防」で閉め切り、農地を造成するという巨大公共事業だ。

最初は、食糧不足を解消するための「米の増産」が、その主な目的だった。時代は変わり、米余りで減反政策がとられるようになっても、事業計画は中止されなかった。目的を変えながら生き残り、最終的に「防災」と「農地の確保」をその目的として強行される。

1997年には諫早湾の奥が鉄板で閉め切られる。その様子は、ギロチンと呼ばれた。ギロチンが落ちた直後から、有明海に異変が起こる。

1999年12月のニュース映像
「有明海のタイラギ漁はきょう午前9時解禁となり、福岡県沿岸からは約50隻が出漁しました。成長したタイラギは全く取れず、貝殻だけという状態で全滅していることがわかりました」

タイラギを始め、多くの貝類が有明海から姿を消し、名物のノリは歴史的な大凶作となった。

今、平方さんの収入はタイラギが取れた頃と比べて、2割程度にまで落ち込んでいる。取れなくなったのは貝類だけではない。

佐賀・太良町の漁師 平方宣清さん
「全然かかっとらん。30匹なら話はわかるんですけど、3匹では…厳しいですね。海底の状況が一段と悪化しているからエサが無い。エサが無いから、カニとか魚も少ないんじゃないかな」

「有明海で生活がしたいだけ」開門調査を命じる判決も泥沼の裁判闘争に

有明海の異変は「イサカン」のせいだ。漁業者たちは、国に潮受け堤防の門を開けて調査をするよう求め、裁判にも訴えた。

一方、国は「干拓事業は海の異変とは因果関係がない」と主張し、徹底抗戦する。

2010年、福岡高裁で開門調査を命じる判決が出されると「イサカン」に否定的だった当時の民主党政権は上告せず、これが確定する。

すると今度は「農業に悪影響が出る」として、干拓地の営農者が国を相手に、門を開けないことを求める裁判を起こす。

2017年、長崎地裁が開門の差し止めを認める判決を出すと「イサカン」を推進してきた自民党政権は控訴せず、これが一審で確定する。これ以降、国は「門を開けない」という姿勢を明確にした。

農水大臣談話(2017年)
「国としては、開門によらない基金による和解を目指すことが本件の問題解決の最良の方策と考えます」

「イサカン」をめぐっては、さらにいくつもの裁判が起こされ、泥沼の裁判闘争が繰り広げられる。

平方宣清さん
「漁獲量が増えていたら、私たちは裁判なんかしません。今、本当に厳しい状況です。年を追うごとに、有明海が弱っている。漁獲量が減っている、漁業者が減っている。本当に国はデタラメです。私は本当にただ海で漁をしたいだけです。有明海で生活がしたいだけです」

2023年3月、最高裁が国の主張通りに「開門は不要」という姿勢を示すと、これが「司法の統一判断」であるという空気が広まる。

野村哲郎 農林水産大臣(当時)
「訴訟だけは、おやめいただきたいなと。国の支援でなんとか再生をしていただきたい」

漁業者側は、到底納得できない。

漁業者側弁護団
「本来司法というのは、行政に対するチェック機能をもたなければいけない。行政が(開門の)確定判決に従わない。これは日本の憲政史上初めての事態です。これをそのまま無批判に是認してしまうということがまかりとおるのであれば、司法に対する信頼は失われてしまいます」

佐賀・太良町のノリ漁師 大鋸武浩さん
「訴訟を乱立させるようにしたのは、農水省でしょう。ふざけんなと。お前らが開門調査をするチャンスが何度もあったのを握りつぶしたために乱立することになったのであって、開門調査をしなくても漁獲高が上がっていればいいですよ、何も文句はいいません、僕らは。ただ、全然あがってないですよ、水揚げ」

有明海はなぜ、豊かだったのか、そしてなぜ、豊かではなくなったのか。

専門家「干拓事業は致命的な影響与えた」奪われる海の栄養分

佐賀県で最も諫早湾に近い、太良町の漁場。大鋸武浩さんは、太良町のノリ漁師。

ノリ漁師 大鋸武浩さん
「私は諫早湾干拓の影響が大きいということを確信しています。あれが出来上がってから冬の赤潮が大発生するように、拡大がひどくなっているのは肌身に感じております」

これまで30年間、ノリの養殖を続けていたが、ついにこの冬、ノリを諦め、廃業した。

ノリ漁師 大鋸武浩さん
「さすがにもうダメだろうと、去年、ノリ漁が終わった段階で思いました。佐賀県西部地区、10年後15年後になるともういなくなるんじゃないかと、ノリ業者が。それくらい海の状況は悪化しています」

有明海に起きた異変。諫早湾の閉め切りから四半世紀が過ぎ、海の研究者たちによってその理由が明らかにされてきた。

海の栄養分となる窒素やリンは、川からもたらされる。有明海では、九州一の大河、筑後川がその主な供給源となる。

有明海の奥には、かつて反時計回りの強い潮の流れがあり、筑後川からの栄養分を程よくかきまぜ、分散させていた。

有明海の潮流を調査してきた 堤裕昭 熊本県立大学学長
「反時計周りがなぜ起きるのかというと、上げ潮の時に、西側は諫早湾に入る水と佐賀県の奥に入って、2つに分かれるから水が単純に半分になるわけですよね。東側にはそういうのはないから、まっすぐ上がる。それによって反時計回りの潮流が起きる。諫早湾の干拓事業は致命的な影響を与えた。あそこを閉めきった分、中に水が入らなくなった。そうすると、東側とあまり変わらなくなっちゃうんです。そうすると、ただの往復流になってしまうから、筑後川から入ってきた窒素とリンはそのまま行ったり来たりして、ずっと留まる分が増えるわけです」

諫早湾を閉めたことによる潮流の変化が、筑後川の栄養分を停滞させ、プランクトンの異常増殖「赤潮」を引き起こし、海の栄養分を奪う。

大量のプランクトンはやがて海底に沈むが、特に水温の高い夏は、その死骸が分解される際、大量の酸素を消費し、海底は酸素不足になる。

酸素不足の海底では、生物は生きられない。貝など、海底にすむ生き物は魚介類のエサとなるため、さらに多くの海の生き物が影響を受ける。

「開門すれば良くなることは明白」 今も、一方的に垂れ流し

また「イサカン」の影響は潮流の変化にとどまらない。潮受け堤防によって出来た広大な調整池。この池には一級河川、本明川の水が絶えず流れ込んでいる。

そのため、閉め切ることは出来ず、実は頻繁に門をあけて、池から海へ排水のみを行っている。

この調整池の水は当初干拓地の農業に使う予定だったが、水質が悪くほとんど使われていない。ため込むことで、水質が悪化した真水が、今、年間5億4000万トン(2021年度・九州農政局)も有明海に一方的に垂れ流されている。

ーー調整池の水を出していることが有明海の漁業不振に関係していると思いますか?

長年調整池を研究している生物学者 高橋徹さん
「めちゃくちゃ関係していますね」

長年、調整池を調査する髙橋徹さんは、門を開け続けて双方向の流れを作り、調整池に海水が入れば、海への悪影響は大きく軽減されると言う。

生物学者 高橋徹さん
「開門すれば良くなることは明白になっています。裁判の中で、自然科学の話がどこかに飛んでいっているように感じます。海や海の生物は関係ないですからね。自然の法則にしか従わないというところが、裁判所も頭から抜けているのではないかと思っています」

長年、有明海のノリを研究してきた川村嘉応さんは、近年顕著になった気候変動が、有明海の悪化に拍車をかけていると感じている。

佐賀大学 招聘教授 川村嘉応さん
「去年、今年と渇水ですよね。雨の量が足りない。渇水になると筑後川の流量が減って、栄養塩不足になる。開けることについては、開けて調査をした方がいいと思います。私が思うに最近は地球温暖化とか、 そういうこともかなり影響してきているので、そういう意味で検証はするなら早い方がいいと思います」

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