放送界に携わった偉大な先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から、テレビ司会者の新たなスタイルの先駆者となり、「クイズ面白ゼミナール」など多くの番組で圧倒的な人気を誇ったアナウンサー、故鈴木健二氏のインタビューをお届けする。(聞き手は元NHKキャスターの隈部紀生氏)

NHKを記念受験、アナウンサー志望ではなかった 

隈部 1952年、昭和27年にNHKにアナウンサーとして入られたと思いますけども。

鈴木 はい。

隈部 アナウンサーを希望されたってのは、何かきっかけがあったんでしょうか。

鈴木 全くありません。就職試験でNHKがどういうところかなんて全然知りもしなかったんですね。

隈部 うん、うん。

鈴木 ええ。一生に一つぐらい受けようと思って。私、大学が仙台ですから、急いで帰って、必要な書類をそろえてもらって出したんですね。

隈部 うん。

鈴木 締め切り5分前でした。午後4時締め切りっていうのを今でも覚えてます。4時5分前でした。そしたらNHKの方が「どこ受けるんですか」って。どこ受けるって、私、NHK受けに来たんですよって言ったら、中にいろいろあるって言うんですね。

隈部 うん。

鈴木 記者だの、それから営業だの技術だの、それからアナウンサーもありますって言うんですね。で、「一番受けてる人が少ないのはどこでしょうか」って言ったら、「アナウンサーは募集人員が少ないから、競争は激しいけど受けてる人は少ないです」と。

隈部 うん。

鈴木 「じゃ、そこ入れてください」って。

隈部 うん。

鈴木 それでアナウンサー。

隈部 ほお。

鈴木 だから基本も分からないわけですよ、私。

最初の配属先・熊本で学んだ放送の原点 

鈴木 それから放送局ってのは何かっていうことも知らなきゃいけない。ゼロから始めなきゃいけないと。これが、よかれあしかれ役に立ったんですね。

隈部 うん。

鈴木 初めのうち仕事を覚えたいもんですから、先輩がちょっと風邪引いたっていうと、「私に『泊まり』をやらしてください」って言って。『泊まり』をやると夜6時から翌朝10時まで一人で責任負うわけで、しかも誰もいない。すると、仕事がたくさんあって覚えるんですね。ですから1週に2回も3回も泊まったんです。

で、そのうちにですね、私が配属先の熊本に行ったのが、5月の初めだったんですが、夏が終わったらいきなり「番組を作れ」って言われたんです。いや、私アナウンサーですよっつったら、朝7時15分から半までのローカル放送を1本、それから土曜日の4時半から5時までの30分を1本、この2本を作れって言われた。

で、朝のは、考えて、何やったらいいか分からないんですね。とにかく熊本県内を歩こうと思って、一番最初に行ったのが、あの池田屋で近藤勇<1834~1868>と渡り合った宮部鼎蔵※ の出生地だったんですよ。(※宮部鼎蔵<1820〜1864>尊王攘夷派の活動家) 

隈部 うん。

鈴木 それで、よしこれやろうっつってね、ええ、池田屋とは何かってのやってやろうと思って。それをいきなりですね、昔の映画でちゃんばら映画、ジャンジャン、ズンジャカチャッチャ、ズンジャッジャン、チャンチャカチャンって音楽があるんですよ。それ持ってきてね、「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時」って、そっから放送始めたら。

隈部 うーん。

鈴木 熊本県人はびっくりした。それで怒られて、放送ってのはそういうことからやるんじゃないって。おはようございます、今日もおはようございます。それから今日はいいお天気。そっから始めんだって言われた。

いや、宮部鼎蔵でね、近藤勇と渡り合って階段から落っこって死んだ男だから、幕末のね、もう重大な池田屋って事件だから、それをやろうと思った。そしたらですね、阿蘇のほうに大学がキャンプを張ってたんですね。そっから一斉にですね、今朝の放送の資料をくださいって電話かかってきた。それで私、初めてね、放送ってのはこういうもんなんだと思ったんですね。

隈部 ほお。うん。

鈴木 ああ、聞いてる人がいろいろ参考にしたり、それを自分の勉強の資料にしたり、そういうことにも放送っての役立つんだな。ただ聞いてりゃいいっつうもんじゃないんだなと、そこで、そう思ったんですよ。

隈部 うん。

鈴木 放送っていうのはこうやって、人の知らないね。種を見つけてきて、そして、それをよく調べて放送してやると、こんなふうにみんなが喜ぶんだなって。大学の先生まで喜んでくれるんだなと思ったんです。

ラジオからテレビの世界へ ― 視聴者に親しまれるのは、はげ、でぶ、眼鏡

隈部 昭和28年にはテレビの放送が始まりますね。ラジオからテレビに変わったっていうことで、アナウンサーとしてギャップみたいなものをお感じになったことはありましたか。

鈴木 テレビが始まる前はですね。アナウンサーの間で、アメリカの情報をいろいろまとめて聞くと、あまりの美男美女が出ていて、視聴者が顔ばっかり見てて情報が伝わらないらしいと。

隈部 ほお。

鈴木 ええ。そういう話だったんですよ。それで私は、ああ、自分はテレビ向きじゃないんだなと思ってたんですよ。そしたら、テレビが始まったら今度は、良いのは視聴者に親しみのある人だと。で、その条件はなんだっつったら、はげ、でぶ、眼鏡だっていうわけですよ。

隈部 うん。

鈴木 そう、私はそこでやっとですね、自分がテレビ向きだって分かって。テレビが出来てから何年経ちますか、六十何年経ちますか、七十年経ちますか※。(※この収録は2011年4月なので、日本でテレビができてから58年)

隈部 うん。

鈴木 ええ。NHKと民放を通じて、この三つの条件を完璧にそなえてるのは不肖私一人だけだったらしいですね。

隈部 ああ。

鈴木 今でも。

隈部 うん。

鈴木 はい。ですからもう三位一体、神のごとき存在で。在職当時はNHKの重要無形文化財と言われておりました。

隈部 はげで、眼鏡で。

鈴木 でぶです。

記者が現場からしゃべる、これがテレビのニュース

鈴木 それで、私はまあ、後で多分話が出ると思いますが、なんでそんなにいろんなことを知ってんですかっていわれるけれども、別に知ってるわけじゃないんです。海の映像があったら、今、映っている海の中にはどんな魚がいて、この海の色は四季折々どういうふうに変化して、と、そういうふうに、そういうものを事前に私は全部調べるんです。

隈部 はあ。

鈴木 映る雑草1本まで調べるんです。だから私は資料を全部読みこなせばどんな番組もそれで90%が終わりだと。演芸番組でも報道番組でも。後になって私、報道へ行って、記者さんたちといろいろ渡り合いますが、それもそうなんです。

ああ、鈴木健二は俺たちの原稿を読んでくれないなんつってたんですよ。で、私は、そうじゃない、あなたたちの原稿を一番読んでいるからこそ、こういう読み方をするんだっつって、何べんやったか分かんない。

そうやってテレビの一番基礎の研究を始めたんですね、誰もやらない分野を。それは、熊本で経験した、よく調べれば大学の先生までが興味を持ってくれるんだということからきているんです。

隈部 へえー。

鈴木 それで私は、これからは「ニュースをお伝え申し上げます」って時代じゃないと。今日は国会でこういうことがありましたって、茶の間で話をする時代なんだ。そしたら、女性向きの種もいっぱいあると。だから女性のアナウンサーにもニュースを担当させてほしいと。

それから出来るだけ、現場に近い記者が直接カメラに向かってしゃべってくれるようなシステムにしてくれないかとか言ったんです。そしたら記者がどっと来たですよ。俺たちはしゃべる訓練受けてないんだと。俺たちの役割は、取材して原稿書くことなんだと。

隈部 うん。

鈴木 それが古い、お前さんたちはっつって。そうじゃなくて、記者が現場からしゃべる。これがテレビのニュースなんだと。それで、記者とはもうさんざんやり合いました。女性を登用してください、記者は現場からしゃべってください。そういうことを主体にテレビのニュースってのは作ってくださいって。

隈部 うん。

鈴木 とにかく、ニュースはショーになりますと。ショーってなんだって言うから、今の朝の「おはよう日本」、ああいう形ですよ。ああいう形でニュースを伝えられるじゃないですか。

でも彼らは、ニュースというものは書いた原稿をアナウンサーが読む、それがニュースだって譲らないわけです。ご存じですかね、昔、報道の中に「報道」っていう連絡誌があったんです。私、その「報道」に、報道局はもっと頭ん中に酸素を注入しろ、それで新しい頭でもって、その新しい時代に対応してくれないかっていうふうな原稿を書いたんですよ。

隈部 うん。

鈴木 その印刷ができたんですが、それをですよ、報道局は部長さん以下全員、安全カミソリの刃を持ってきて、私の部分だけ全部切って配った、全員に。これを雑誌「報道」事件っていう。そこまで私は嫌われてたですね。

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