米軍機搭乗員3人の殺害に対して、41人に死刑が宣告された石垣島事件。最終的に7人に死刑が執行されたが、そのうち4人は「命令に従った」実行者たちだった。しかし、横浜裁判にかけられた他の米軍機搭乗員の処刑事案では、実行者でも将校のみを起訴し、下士官以下は被告にすらなっていない事件もあった。この差はなぜ生まれたのかー。
◆最初は極刑 のちには無罪も
前回紹介した、石垣島事件関係者の赦免勧告の文書と同じファイルに、<正義の叫びで『戦犯』を釈放しましょう>と題した冊子が綴じられていた。
サンフランシスコ平和条約が発効し、戦犯たちの釈放を求める活動が活発化する中で、一般の人向けに戦犯について知ってもらおうと作った冊子のようだ。
その中に「命令を受けて戦犯になった人たち」に関する項目があった。
(冊子「正義の叫びで『戦犯』を釈放しましょう」より)
<命令に服従しても共同謀議>
軍に於いて命令は絶対に服従されねばならぬことは、恐らく世界共通の常識でありましょう。しかるに初期の戦犯裁判ではこれを認めようとせず、処刑の命令者はもとより、命令を伝達した者、命令を実行した者、その処刑の準備をした者、警戒に当たった者等は、ことごとく共謀して罪を犯したものとし、死刑又は終身刑の極刑に処せられました。後に、命令に服従した者に対しては、情状を酌量するということになり、少々軽い刑を与えられ、最後には命令に服従した行為は問わぬこととして不起訴となり、又は無罪の宣告を与えられることになりました。目下服役している戦犯は、初期或いは中期に裁判を受けた人達で、方針の変化にも拘わらず、最初の判決のまま放置されているのであります。
◆石垣島事件の減刑は
石垣島事件の横浜裁判での初公判は、1947年11月26日。そして判決は翌年、1948年の3月16日だった。この時に41人に絞首刑が宣告された。
その後、1949年1月末の再審で、絞首刑は13人にまで減った。減刑された28人の内訳は、絞首刑から無罪が3人(いずれも水兵)。重労働5年から20年の有期刑となったのが18人(うち16人が水兵)、終身刑になったのは7人(下士官と水兵)だった。
最終的には、1950年3月18日の再々審で司令の井上乙彦大佐、副長の井上勝太郎大尉、処刑の現場を仕切っていた榎本宗応中尉、一人目の搭乗員を斬首した幕田稔大尉、二人目を斬首した田口泰正少尉、そして三人目を最初に銃剣で刺した藤中松雄一等兵曹、二番目に刺した成迫忠邦上等兵曹、この7人の絞首刑が確定した。
再々審で6人がぎりぎりで減刑され、絞首刑を免れたと言っても、炭床静男兵曹長ら5人の下士官は最高40年の重労働という厳罰のままだった。
また、再審で終身刑に減刑された下士官や水兵にとっては、再々審の減刑者が、自分たちより軽い有期刑であることに大きな不満を持った。
◆「命令による実行者」ほかの裁判では
命令の実行者、しかも藤中松雄のような下士官も絞首刑という厳罰が下された石垣島事件。ほかの横浜裁判ではどうだったのか。
福岡の西部軍事件で、1945年6月19日の福岡大空襲で母を亡くし、翌日、西部軍敷地内で米軍機搭乗員4人を斬首した冬至堅太郎大尉が、1953年1月27日付けで巣鴨委員会の戦犯事件調査票に書き込んだ申し立て事項がある。
右の如く類似事件に比し判決加重なり
中部軍事件 処刑実行者 無罪
東海軍事件 処刑実行者 10年(執行停止にて出所)
西部軍事件 処刑実行者 終身
西部軍事件の関係者は、石垣島事件の判決を聞いて、自分たちも同じ目に遭うのではないかとかなりのショックを受けたようだ。
9ヶ月後、冬至堅太郎大尉らが関わった計約33人の米軍機搭乗員処刑事件(油山事件)の判決は12月29日に宣告された。
冬至大尉は絞首刑だったが、石垣島事件の7人が死刑執行された3ヶ月後、終身刑に減刑された。その2年半後に、この調査票を書いている。
◆銃殺で無罪 極めて軽い判決も
「BC級戦犯裁判」(林博史著 岩波新書2005年)の中に、これらの事件についての記載があった。
それによると、中部軍管区の中部憲兵隊が1945年7月5日から8月15日にかけて計44人の搭乗員を処刑した事件の裁判があり、司令官の中将ら27人が被告になったが、
「この裁判では死刑はなく、全員、終身刑以下の刑にとどまった。また命令に従って処刑を実行した者で、正規の処刑方法である銃殺に関わった准尉以下の10人は無罪となった。全体として極めて軽い判決だった」
BC級戦犯裁判(林博史著)より
とある。
◆東海軍「下士官以下は実質的に無罪」
また、東海軍のケースでは、1945年5月下旬から1ヶ月ほどの間に、27人の米軍機搭乗員を斬首して処刑し、司令官の中将以下20人が起訴された。
「判決では司令官だけが絞首刑になったが、参謀など将校は終身刑から15年、処刑を実行した下士官と兵13人は10年の重労働になった。ただし下士官と兵13人は服役が免除されたので、ただちに釈放された。つまり命令に従って処刑を行った下士官以下は形式的には有罪であるが、実質的には無罪と同様の扱いを受けたのである」
BC級戦犯裁判(林博史著)より
◆西部軍「起訴されたのは将校だけ」
一方、約33人の捕虜を処刑した西部軍のケースでは、
「司令官の中将ら32人が起訴され、司令官をはじめ、参謀副長、法務部長など9人の死刑判決が下された。そのなかには、処刑に参加した3人の将校も含まれている。ただし全員、死刑から終身刑に減刑され、死刑になった者はいなかった。この裁判では命令を受けて処刑を実行した者にも厳しい判決が下されたが、起訴されたのは将校だけであり、下士官以下は起訴もされていない。そうした点でも命令下に行った行為については、下士官以下の者は免罪されていたと言ってよいだろう」
BC級戦犯裁判(林博史著)より
◆なぜ石垣島事件では実行者も死刑に
先の戦犯釈放運動の冊子では、「初期或いは中期」の戦犯裁判では命令に従った者も情状酌量されなかったと説明されている。
横浜裁判の審理が始まったのは、1945年12月18日、終結したのは1949年10月19日だ。石垣島事件の裁判が始まったのは、1947年11月なので、中期にあたる。
確かに、藤中松雄は「命令に従った」と法廷で訴えたのに情状酌量されることなく、絞首刑を宣告され、しかも最後まで覆ることはなかった。しかし、ほかの裁判と比べると、石垣島事件の判決は極端に重い。
絞首刑を執行された7人のうち、下士官は藤中松雄一等兵曹と、成迫忠邦上等兵曹の二人だけだ。命令によって米軍機搭乗員を銃剣で刺した28歳と26歳の青年は、なぜ死刑から逃れられなかったのかー。
(エピソード47に続く)
*本エピソードは第46話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
【あるBC級戦犯の遺書】#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
【あるBC級戦犯の遺書】#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
【あるBC級戦犯の遺書】#3 「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
【あるBC級戦犯の遺書】#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
【あるBC級戦犯の遺書】#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
【あるBC級戦犯の遺書】#6 「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
【あるBC級戦犯の遺書】#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
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【あるBC級戦犯の遺書】#44 「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
【あるBC級戦犯の遺書】#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
【あるBC級戦犯の遺書】#46 「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
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