東京都台東区と荒川区にまたがる、いわゆる「山谷」という地域は、かつて日雇い労働者の町でした。そして現在は、安宿を求める外国人バックパッカーの町として有名です。1960年代「山谷の日常」をじっくり写したフィルムが、TBSのアーカイブにありました。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)

「簡易宿泊所」の密集地で

山谷という地域は、かつて日雇い労働者の街として全国にその名を轟かせていました。

戦後の高度経済成長期に多くの日雇い労働者が集まる場所となり、安価な簡易宿泊所(ドヤ)が多数存在しました。彼らは主に建設現場や運送業などで働き、山谷は労働者たちの生活の拠点となっていました。

蚕棚のようなベッドが並ぶ簡易宿泊所(左)と、手配師のバスを待つ男たち(右)

高度成長を支えた町

山谷の歴史は江戸時代に遡り、当時から労働者が集まる場所として機能していましたが、本格的に日雇い労働者の街として発展したのは戦後のことです。

山谷に並ぶ数々の簡易宿泊所。簡易宿泊所=ヤドをひっくり返して「ドヤ」。これが「ドヤ街」の語源です。

特に1960年代から1980年代にかけて、多くの労働者が山谷に集まり、その生活を支えるための施設やサービスが発展しました。簡易宿泊所や食堂、銭湯などが密集し、労働者たちが仕事を終えた後に利用する場所として栄えました。

立ち飲み&ツマミは乾き物だけ、いわゆる「角打ち」がこの町のスタンダードです。

『あしたのジョー』では泪橋を逆に渡れ、と

梶原一騎原作の大ヒットマンガ『巨人の星』と『あしたのジョー』は、ともにこの山谷をイメージした町から物語が始まります。ジョーは「いつかはチャンピオンになって泪橋(なみだばし)を逆に渡るんだ」とここでトレーニングに励みました。
「泪橋」の地名は今でも交差点の名前として残っています。
その近くの土手通り沿いにはジョーの像も。

『あしたのジョー』で泪橋は小さな川にかかる木橋でしたが、現実は川自体が暗渠になってしまっています。

しかし、そうした日雇い労働者の町というにとどまらない庶民の普通の生活が、じつはここにはあったのです。
主役はたくさんの子供たちです。

山谷のフィルムを見ていると、とにかく子供たちの多さに驚かされます。

紙芝居、メンコ、女子学生たち

テレビの普及率がまだ低かった頃、子供たちはおじさんが自転車でやってくる紙芝居の周りに集まりました。

今日のヒーローは「黄金バット」か「月光仮面」か。子供たちが一心に紙芝居を見つめます。

路上は子供たちの遊び場でした。そのリアルな姿がフィルムに残っています。
また子育て中のおかあさんたちが商店街で買い物をしています。

東京下町の普通の風景がありました。

さらには制服を着た女子学生たちが、日雇い労働者たちの中を普通に通学しています。多くの外国人はこれらの画像を見て驚きます。「なんて治安の良い町なんだ」と。

地元の中学校に通う生徒たちにとって、ここは普通の「我が町」でした。

ときおり起きる「暴動」ばかりがピックアップされがちでしたが、山谷は「東京の普通の庶民の町」という側面を大いに持っていたのです。

山谷がインバウンドご用達に

しかし、バブル崩壊後の1990年代以降、建設業などの景気低迷により日雇い労働の需要が減少し、山谷もその影響を受けました。

多くの労働者が職を失い、山谷は次第に、別の意味の「安宿の町」に変化していきます。

古くからの簡易宿泊所はゲストハウスやバックパッカー向けの宿泊施設に改装され、国内外の旅行者が訪れるようになりました。

三畳の部屋も密集した町も「新鮮だ!」

また、地域の文化や歴史を生かしたイベントや取り組みも行われており、新たな魅力を発信する努力が続けられています。

山谷は、過去と現在、そして国内と国外が交錯する場所として、今なお多くの人々を集め続けているのです。

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