非行を繰り返した少年が少年院で思い出したのは、医者という夢と父の存在。非行少年だった当時、煙たがれていた男性は、いま地域で必要とされる医師として奮闘しています。「みんなが応援してくれた。次は応援する立場に」と語る医師の“これまで”と“いま”を取材しました。

大事にしているのは「病気」ではなく「人」を診るということ

 大阪府河内長野市にある水野クリニックの院長・水野宅郎さん(46)。内科と小児科を開設していて、父の代からこの地で地域の医療を担っています。
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 いま力を入れているのは訪問診療です。取材した日、訪問診療したのは70代の女性。

 (患者に話す水野さん)「どうしたの?えらいしんどそうや」

 末期がんで在宅療養をしていて、この日は肺の外側に水が溜まり、全身に倦怠感を訴えていました。

 (水野さん)「直接針を刺して抜くという方法もあることはあるけど、量が少ないと刺せないんですよ。量がいっぱいだと刺せるんですけど。少ないと肺を傷付けたりするので。利尿剤を増量するとしんどいかなという感じやな」
 (患者)「先生にお任せします」
 (水野さん)「え?お任せしてくれるの?」

 現在、水野さんら医師3人で受け持っている訪問診療の患者は約150人。大事にしているのは、病気を診るのではなく「人」を診るということです。
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 (水野宅郎さん)「病気だけじゃなくて『この人、何を求めているんやろ』って考えた方が満足度は上がると思うけどな。最後の方は、医療っていうより人と人との付き合いという感じやな」

いまは患者 水野さんの“過去”を知る保護司

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 次に訪れたのは、松原市に住む田中輝彦さん(84)の家です。

 (水野さん)「うーん大変やな。大変な病気やな」
 (田中さん)「いつ死ねんのかな、もう死にたいわい」

 慢性閉塞性肺疾患という病気で、肺機能が低下して常に酸素投与を必要としています。診察を終えると…
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 (水野さん)「いまで80…?」
 (田中さん)「84歳」
 (水野さん)「84歳か。少年院を出てきた時はまだ60歳くらいやったんかな。20年くらい前やから」
 (田中さん)「年取りましたね。何が惨めかっていうと年取ることや」
 (水野さん)「少年院出た時は(田中さんは)しゃきっとしていたから」
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 実は水野さんは10代の頃、少年院に入っていた過去を持っているのです。
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 (水野宅郎さん)「シンナー吸ったりとか、シンナーからだんだん覚醒剤にいったりとか。薬物にはまってしまっていた」

 中学時代からシンナーを吸い始め、高校は数か月で退学。覚醒剤に手を出して逮捕され、18歳で少年院に送られました。少年院を出た後、医師を目指す水野さんを応援してくれたのが、当時、担当の保護司で、今は患者の田中輝彦さんです。
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 (田中さん)「最初から、一緒に頑張ろうと。『将来、俺の死亡診断書を書けるようになれ』と言った」
 (水野さん)「応援してくれる人がいたのはやっぱり強いなと思いますね」

少年院生活をきっかけに医師を目指す決心「幼稚園の時の夢を思い出した」

 非行に走っていた水野さんがなぜ医師を目指したのか。転機は、1年間の少年院生活で自分を見つめ直したことでした。

 (水野宅郎さん)「自分の生い立ちを思い出したときに、自分が『医者になりたい』という夢を幼稚園の時に持っていたことを思い出したので。父への憧れというのがあったのかなという感じ。お父さんお医者さん、自慢のお父さんみたいな感じで、どっかにはあったのかなと。ずっと口を聞いていなかったけどね」
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 今は亡き、開業医だった父・滋さんへの憧れが強くあることに気付き、医師を目指すと決心したのです。

 (水野宅郎さん)「少年院を出た後『医者になりたい、学校に行きたい』と父に言ったら、元々高校にほとんど行っていなかったので、『高校3年間行かせるつもりやったから。その分の学費を置いているし、3年間だけ好きにしたらいい』と(父に言われた)」

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