「琉球政府の人たちの思いが詰まっている」

「マル秘」の赤い印鑑が押された資料。記者に示した持ち主は、感慨深げに語った。

▽翁長巳酉さん
「なぜこれを作ったかというのは、憶測ですけれども、琉球政府から沖縄県になるのを前に、“こうなってほしい”と。当時の琉球政府の人たちの、思いが詰まってる感じですね」

琉球政府企画局、1971年6月と記された資料の表紙には「軍用地および軍用施設」と記され、「現況調査報告」「転用の基本的考え方」「現況図・転用計画図」の3つの内容に分かれていた。


1945年の敗戦以降27年間、米軍の統治下に置かれていた沖縄は、1972年5月15日に施政権を日本に返還され、日本に「復帰」した。琉球政府とは、1972年5月15日の復帰まで沖縄に存在し、その役割を沖縄県庁に引き継いだ行政組織だ。

復帰の前年、彼らが詳細に「軍用地および軍用施設」の現況を調べ、転用計画をまとめたのはなぜだったのか。ページをめくると、壮大な夢が詰め込まれていた。

「普天間基地に県庁」

琉球政府が作成した53年前の資料を保管しているのは、那覇市の翁長巳酉さん。翁長さんの父、林正さん(故人)は、琉球政府最後の公選行政主席、屋良朝苗のもとで農林局長を務めた政府幹部だった。林正さんが残していた資料を数年前に整理したところ、この資料が出てきたという。翁長さんはB1サイズの大きな地図30枚に及ぶ「現況図」と「転用計画図」を1つひとつ開いて説明してくれた。

▽翁長巳酉さん
「ここに電車が走る計画なんですよ。これが普天間基地・・・」
「普天間基地の跡にビジネスセンター、県庁なんて書いている。面白いことを考えてたなと思います。当時の人たちは」

日本復帰前に描かれた夢。それは、戦後米軍に奪われ軍事基地となった土地の大規模な返還と、それを存分に活用した県土全体の再構築だった。「転用計画図」には、普天間基地の跡地に県庁を移しビジネスセンターを形成するといった案が記された。普天間基地について、資料「転用の基本的考え方」にはこのようにあった。

▽資料「軍用地および軍用施設~転用の基本的考え方~」
「接収されている地域は平坦部で利用価値の高い土地である。新行政センターの候補地として最も有望視されるところであるので、解放になれば行政センター、教育施設等の誘致をしたい」

当時から深刻だった「土地不足」

広大な土地を米軍に接収された沖縄。県民が活用できる土地の不足は当時から深刻な問題だった。1970年の琉球政府の調べでは、沖縄の土地は当時、総面積約24万ヘクタールのうち56%が山林原野、22%が農地だった。軍用地が8%を占めた。

市街地や宅地、工業用地や公共施設、河川と雑種地まで含めた土地はまとめて「その他」に分類され、それらがわずか12%の土地に集中していると記録された。(1970年9月琉球政府刊行「長期経済計画」より)

戦後間もないころ、社会インフラや人々の経済生活基盤は壊滅していたため、沖縄の市街地は米軍基地の周辺に貼り付くように
形成されていった。

翁長さんが保管する資料「転用の基本的考え方」のなかでは、混乱のなかで無秩序に市街地が形成されてきた経緯がところどころで触れられている。

▽資料「軍用地および軍用施設~転用の基本的考え方~」
「…戦後は米軍要員相手の商業・サービス業等が沖縄の経済を支える重大な柱となったため、人口は基地の周辺に集中して、数多くの集落を形成した。その後の米軍基地活動の拡大は、それらの集落の人口収容力を強めた」
「基地の持つ経済効果の大きさによって、これらの集落はそれぞれ拡大を続け、…ほとんど切れ目のない都市群を形成している」

歪な成り立ちのまま拡大していった各地域は、「基地と依存関係にある部分以外は自己完結していて、有機的に結びついていない」と分析されていた。そして1971年当時にはすでに、その弊害が目立ってきていた。

▽資料「軍用地および軍用施設~転用の基本的考え方~」
「(現在の混雑は)既成市街地内において利用しうる土地が全体として極めて不足しているためであって、市街地の再開発は基地開放を前提とする計画的拡大を抜きにしては考えられない」


▽資料「軍用地および軍用施設~転用の基本的考え方~」
「1960年代の後半を境として沖縄経済における米軍基地の役割は停滞から減少に転じてきている。特に琉球政府の ”長期経済開発計画” における中核都市圏構想の実現のためには、軍事基地の存在はむしろマイナスファクターとして働いている面が大きくなってきている」

基地の広大な土地とインフラ 都市の再構成に「不幸中の幸い」

復帰前にはすでに、沖縄の米軍基地は発展の阻害要因と考えられるようになっていた。しかし大規模な返還が望まれたのには、違った側面もあった。基地の内部に残る、返還後も活用できそうなインフラや建物などは、できるなら活用したいという期待があったこともうかがえるのだ。

例えば、転用計画図で嘉手納基地の一部は「保留区域」を示す黒線で囲われた。早期返還の期待値は低いとされていたが、将来計画として、空港機能は残し、滑走路に隣接する区域を工業地域化することを示す水色が塗られていた。

▽翁長巳酉さん
「嘉手納はちょっと動かないかもという前提で、こういうふうにしたらいいかな、ってことですね。でも当然と思っていたんじゃないすか」

▽資料「軍用地および軍用施設~転用の基本的考え方~」
「これらの基地が、都市再編成上重要な地点に相当の広がりと膨大な施設の集積地をもって配されていることは、不幸中の幸い」
「再編成を行うには軍用地の存在は非常に有利な要素でもある」

こうした考え方のもとで、米軍基地の大規模返還後の利用計画の基本方針が掲げられた。

【軍用地及び軍用施設転用の “基本方針” 】
〇中核都市圏を、有機的に結合(大那覇市、沖縄市)
〇那覇市は雑居的性格を改め、商業的中心部として整備、行政機能は新たな地域へ移す
〇宜野湾市、北谷村(現在の北谷町)は膨大な施設を有効に活用する(国際会議施設など)

県土の大規模な再編成に、個々の地主の利害関係は必ず生じる。そうした調整にも県など行政が指導力を発揮する必要性をみとめたほか、地主の利益を守りながら事業を進める「軍用地転用・開発機構(仮称)」という事業主体の設置まで提案した。

これほど大きく描かれた夢の中心にあったのは「鉄道構想」だった。

那覇中心の沖縄を造り直す 解放基地に「悲願」の鉄道建設を構想

▽資料「軍用地および軍用施設~転用の基本的考え方~」
「かつて本島南部にあった鉄軌道に対する郷愁的感情論からはじまり、…観光客に特に西海岸の風光を紹介したい等々、少なからぬ希望を乗せての将来計画でもある」

沖縄にはかつて、鉄道が走っていた。1914年に、現在の那覇市と与那原町を結ぶ路線が、その後大正期までに、中部の嘉手納線、南部の糸満線と路線は拡張されたが、1945年の沖縄戦で破壊され、その後沖縄は鉄道のない島となっていた。

しかし、鉄道建設を思い描く記述からは、単なる再建要求ではなく、県土を再編成するうえで鉄道が果たす役割に大きな期待をかけていたことがうかがえる。

▽資料「軍用地および軍用施設~転用の基本的考え方~」
「(軍用地の)返還を機会に現在の機能麻痺に陥った那覇中心の都市を、新しいゾーニングの手法によって、中部の解放基地を中心として、新規に造成し直す新都市計画提案の有力な手段として鉄道建設を提唱する意見もある」

過密という問題の現実的解決策としても、鉄道建設が望まれた。当時の沖縄本島には、那覇から嘉手納までの南北約30km、西海岸から約5kmのエリアに人口の6割近く、46万2000人が集中していた。(1970年10月の国政調査)

この人口密度は、当時の大阪府よりは低いが京都市を上回り、本土の大都市並みであると記された。


経済復興にともなって自動車の保有台数も増加。1965年に4万1000台あまりだった自動車台数は1970年には11万4000台を超え、「1号線」と呼ばれた現在の国道58号の「交通混乱は驚くほど」だったという。鉄道による過密解消はまさに悲願だった。

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