石川県輪島市町野町出身で東京在住のシナリオライター、藤本透さんの実家は全壊し、家族は約1ヶ月の避難所生活を経て、県外での避難生活を余儀なくされました。

発災から一日も休まず、現地ならではの情報や行政機関の情報をまとめて、X(旧・Twitter)で発信を続けている藤本さんには、今の町野町はどのように映っているのでしょうか。

MRO北陸放送では、町野町を中心に被災者の声を藤本さんがまとめた企画記事を月に1度、NEWS DIGで配信していきます。今回は第1回です。

輪島市町野町出身のシナリオライター、藤本透です。

私のふるさと、輪島市町野町は輪島市の東側にあり、今回の地震の震源地・珠洲市と隣り合っています。町野町は、1956年に輪島市に編入されるまで、単独の町として存在していました。集落を中心として地域の人たちが助け合って暮らしている姿は、昔も今も変わりありません。

私は、2歳から高校卒業まで、町野町で過ごしました。

地震発生から4か月がたち、テレビなどのメディアでは、被災地の情報のごく一部が報道されるのみ。発災時から時間が経つにつれ、SNSなどでの情報発信も少なくなってきております。

避難生活が長引く中で、現状を聞いても、当たり前ではないことが日常になってしまった被災者のみなさんは、何に困っているのかもすぐに思いつかないような状況です。

2月の輪島市町野町


発災時は雪の降る真冬の寒さでしたが、春になり汗ばむ陽気の日も増えてきました。町野町は全壊家屋が多いこともあり、衣類を中心とした生活用品がいまだに不足しています。

冬物しか着るものがなく、どうにか家を片付けてタンスなどを探ってみても、雨漏りでカビだらけになってしまっていて、使える状態にはありません。

買い直すにしても、町野町は公共交通機関が止まったままのため、特に高齢者は交通手段がなく、買い物に行けない状況が続いております。

車があり、買い物に出かけられる人も、輪島市内の衣類取扱店は時短営業、近隣の大型店は閉店のお知らせが出るなど、不便な状況に変わりはありません。

町野町の住宅の内部(有志の方提供)

また、町野町では全ての薬局が閉店してしまったため、病院に行く交通手段もなく、薬の調達さえままなりません。衣類の問題にしても、これから暑くなる夏の問題を乗り越えなければならないので、まだまだたくさんの支援が必要です。


5月2日に、国道249号、輪島市野田町の海岸沿いの区間で復旧作業が終わり、町野町からは金蔵から南志見、南志見から野田町を通って輪島市街へ入るルートが完成しました。

緊急車両や地元車両に限っての通行が認められており、報道されている箇所はアスファルト舗装がなされていますが、町野町からは砂利道の応急復旧道路の金蔵~南志見間を通る必要があり、天候や工事の状況次第では安易に通ることができない状況です。

野田町から先も、鵠巣(こうのす)地区は液状化現象の被害が大きく、道路が大きく波打っているため、運転に慣れている人さえ車酔いするほどです。

4月から新学期がはじまりましたが、町内に高校がなく、遠距離通学をしなければならない町野町では、通学手段である路線バスの不通やスクールバスの運休が高校生たちの大きな負担となっています。

輪島高校出身の私は、町野町から路線バスに乗り、市街地への最短ルートである国道249号を通って毎日通学していましたが、それでも片道60分の道程でした。今はその道さえ使うことができないのです。新学期が再開されたという報道の向こうに、このような現実があることをどうか知って頂ければと思います。

国道249号線の迂回道路


仮設住宅が完成したこともあり、町には少し人が戻ってきました。

災害ごみを出している家も増えましたが、町野町は応急危険度判定で「赤」と判定されている家屋が多く、ほとんど自分たちだけで片付けを進めている状況です。

辛うじて立ち入りができるお家でも、ボランティアさんに片付け支援をお願いすると、家財を確認しつつ行うため、全ての家財を出すことになることから、支援を諦めているご家庭もあります。

被災した家屋は、余震やこれまでの雪、雨の影響もあり、中で作業をしているとミシミシいう音が聞こえてくるそうです。

そのような家の中で、被災者自身が、ヘルメット、安全靴や手袋といった充分な装備もなく、片付けをしなければならない状況は二次被害にもつながる危険性があり、非常に心配しております。

自宅避難を続けていた方の話では、夜、静かなところにどこからか凄まじい音が聞こえてくるときがあるそうです。「何の音だろう」と外に出てみても、街灯もなく真っ暗なので何も見えません。朝になって改めて見てみると、きのうまで建っていた家が倒壊していたそうです。

こうした新たに倒壊する家屋の話は、町野町だけでなく、奥能登地区の至るところで聞かれます。そうならないうちに、あるいはそうなってしまった後も、家財などを救出したくても、被災者だけで進めるには、保管場所の問題なども含めて、多くの方が困っていらっしゃいます。

2007年の能登半島地震とは異なり、大型連休に子どもや孫などの親族が、連泊で実家の片付けに来られない状況です。それは、奥能登地区には宿泊場所が限られており、その多くが休業したままだからです。

同じ要因が、二次避難者が地元に戻れずにいる状況を作り出しているように感じられます。家を片付けたくても、避難所などに泊まることもできず、日帰りでしか作業することができないのです。

また、公費解体の申し込みも難航しています。曽祖父の時代から名義変更などの書き換えがなされておらず、先祖代々の家屋に住み続けている人が多くいることが浮き彫りになっています。

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