鹿児島市の百貨店、山形屋が金融機関の支援を受けて、経営再建に着手することが分かりました。街の人たちや買い物客からは「頑張って欲しい」という声が聞かれます。

この記事では、創業から260年を超える歴史をまとめた社史『山形屋二百六十七年 株式会社設立百年記念』(2018年発行)をひも解きながら、山形屋のあゆみを伝えます。後編は激動の昭和から平成です。(前編・山形屋の歴史 江戸時代に創業、西南戦争で焼失…第一次大戦で「船のほうがもうかる」とすすめられた経営者は言った)

(本記事は2019年に放送した内容を再構成したものです。肩書や年齢は当時のものです)


山形屋は1932年=昭和7年には、地下1階、地上7階建てに。地下に喫茶室、4階には大食堂、5階から7階にかけて演舞場を備え、百貨店として発展します。

しかし、1941年=昭和16年に太平洋戦争が始まると、売り場には戦争の影が落ち始めます。山形屋の歴史の中でも特に苦しい時代です。

「店内の繊維、雑貨類は軍刀や大工道具に代わり、頼りの男子社員は一斉に戦地へ駆り出された。」(山形屋社史より)

鹿児島大空襲 山形屋も建物の形だけを残し全焼

国から戦争への協力を求められ、1944年=昭和19年には4階が魚雷の舵を作る工場となりました。


翌1945年=昭和20年6月の鹿児島大空襲では、市内でおよそ2300人が死亡し、市街地の4割が焼失。山形屋も建物の形だけを残し全焼しました。



この3年後の1948年に山形屋に入社した鵜木信也さん。大空襲の様子を先輩社員から聞いていました。

(鵜木信也さん・取材時90歳)「空襲では、店のシャッターの所に近所のおじさん、おばさんたちが避難して、先輩が“地下室に入りなさい”と言って案内して入れたと聞いた。私ならどうするだろうか…と思った。」

終戦直後 焼けた店舗…沈む会議の場で社長は宣言した

壊滅的な被害を出しながら、8月15日、終戦。数日後、当時の伊佐郡山野に疎開していた山形屋本部で幹部会議が開かれました。

日本はどうなるのか?焦土となった鹿児島市は復興できるのか?誰も見通せず、会議の空気が沈む中、社長の岩元修一は宣言しました。

「われわれの本業はデパートだ。戦争が終わった以上、ぐずぐずしている必要はない。一刻も早く、鹿児島へ帰って店を開こう」

社員による焼け跡の片付けを進めながら、およそ1か月後の9月17日には営業を再開。全焼した店舗の1階に木の台を並べて、焼け跡から掘り出したやけど用の薬や文房具などを販売しました。

肩書・年齢は2019年取材時

(故・岩元恭一社主)「早く商いをして、地域の方々に食べる物でも着る物でもお届けしないといけない。戸板で商売を始めた。各階を使えるように補修、改修を1階1階やっていった。これが大きな苦労の時代。」

「山形屋がいよいよ商売を始める。それなら、世の中ももう安全なのだろう。」市民はこう話して、平和を実感したと言います。

まずは生活必需品を作ることから

物資がない時代、まず生活必需品を作ることから始まりました。本社の3階で焼けたミシンを修理。社員が手分けして農村から古着を集め、服を作りました。製造の過程で出る切れ端も無駄にせず、帽子やげたの緒を作り、売り場に並べました。採算に合わない仕事でしたが、焼け出された市民生活の不自由を考え、奉仕的に続けたといいます。

並行して、「1年1フロア」を目指し全焼した建物の再建に取り組みました。


(1948年入社 鵜木信也さん・取材時90歳)「社員のみんなが早く昔の大きい山形屋にしようじゃないかという心意気だった。焼け跡の整理をする専門の人たちがいて、よく手伝った。」

全焼した建物は8年あまりかけ再建。復興の苦労を支えた志について、当時の岩元修一社長は「祖先の教えである<信用第一、お客様本位、あくまで堅実に>の社是がいつも守られてきた」と語っていたといいます。

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