1950年4月7日、28歳の藤中松雄と一緒にスガモプリズンで死刑が執行された下士官、成迫忠邦。26歳で命を奪われた成迫を直接知っている男性がいた。同郷の武田剛(こう)さん。武田さんは、当時500戸の全村民の助命嘆願書を担いで、スガモプリズンまで届けに行ったという。しかし、MP(米軍の憲兵)に銃をつきつけられ、塀の中にいる成迫に会うことは出来なかった。そして、間もなく村に届いた知らせ。激震が走ったー。

◆日大の学生だった成迫忠邦

武田剛(こう)さん

成迫忠邦のふるさと、大分県佐伯市木立。現在も木立にお住まいの武田剛(こう)さんは、94歳。(2024年6月取材時)サイパンで戦死した兄と親しかった成迫のことはよく憶えている。日本大学の学生になった成迫は、帰郷した時、武田さんの頭に角帽をかぶせてくれた。こどもだった武田さんから見ても、成迫は綺麗な顔立ちをしていたという。

そんな成迫がBC級戦犯として囚われ、一審で死刑の判決が出たあと、さらに「再審でも死刑」という過酷な知らせが届いた。それを成迫家へ届ける役目だった武田さんの父(当時の村長)は、成迫家に向かう道の途中で心臓の病で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

その10ヶ月後、武田さんは村の青年団の活動発表で上京する際に、成迫の減刑を求める嘆願書を持っていくことになった。

◆村中の嘆願書を担いでスガモプリズンへ

死刑判決を受ける成迫忠邦 1948年3月16日(米国立公文書館所蔵)

(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)「佐伯史談210号」(2009年7月)
青年団員は手分けしてまたたく間に全村民の署名を集め、私は団員からのお餞別で汽車の切符を買い、リュックサックに署名簿と上京中食べる米を六升ばかり入れて「よし、この署名簿で助命をかちとってみせる」と、はやる気持ちで汽車に乗り込んだ。助命嘆願などどこでどうするのかさっぱり知らないまま、行けばどうかなるという旅立ちだった。

いよいよ巣鴨の忠邦さんに面会に行った。巣鴨の駅に降りると一面の焼け野原に高さ7~8メートルはあろうかというコンクリートの高い壁が延々と連なっていた。「あの中に忠邦さんが居る、やっと会える」と、高鳴る気持ちでその壁にたどりつき、正門をめざした。門には白いヘルメットにMPと書いた米兵が二名、カービン銃を横に持って立っていた。門の前に小さな事務所があり、米兵と日本人も居た。


しかし、面会したい旨を告げると、「肉親しか会えない」と言われた。署名簿も見せたが、係は首をふるばかりで、「気の毒だが帰りなさい」と言う。居ても立っても居られず、武田さんは門に近づき、入ろうとした。

◆塀の向こう側にいるのに会えない

スガモプリズン

(武田剛さんの話)
「スガモプリズンに2,3歩入ったら、『ストップ』って言われて、カービン銃で押し返されたんですよ。それでどうしても会えんで。この塀の向こう側におるのに、会わしてくれたらよかのに会えんで。情けのうて、わんわん泣いたんですよ。背中に助命嘆願の村中の署名簿を担いで行ったんですけど」


武田さんは、「忠邦さーん、忠邦さーん、武田のこうです。忠邦さーん」と壁を叩いて、幾度も叫んだという。翌日、GHQへも足を運んだが、とても近寄れる雰囲気ではなく、誇らしげに闊歩する米軍将校たちの姿に、「ああ戦争に負けたんだ」と気落ちしたそうだ。

すし詰めの列車に四十時間ゆられて木立村に帰り着き、青年団に「折角の署名簿も役に立つかわからない」と報告したら、二百人近い団員が皆じっとうつむいて、誰一人質問をする人もなかったという。

◆いくばくの我の余命か

写真を見る武田さん

(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)
成迫さんに「面会に行きましたが会うことが出来ませんでした」と手紙を書いたら、すぐ返事が来て、わざわざ来てくれたことを感謝する言葉のおわりに次のような歌が添えられていた。

いくばくの我の余命か今日も又 母の写真を取り出して見し

この歌に胸を突かれるような想いがしたあとすぐの、四月の初めに村に激震が走った。四月七日に忠邦さんが処刑されたという。呆然として、お悔やみに伺った。星の見えぬ暗い夜、成迫家はあかあかと灯がついていた。沢山の弔問の人は皆おこったような顔をしてあまりものを言わなかった。

◆忠邦は春雨に濡れて行った

「祈り」巣鴨版画集より

成迫に刑場まで寄り添った田嶋隆純教誨師から、家族には最期の様子が伝えられていた。武田さんは成迫が言い残した言葉を聞いた。

(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)
遺骨の前にお母さんが打ち伏していた。忠邦さんは「忠邦は春雨に濡れて行ったとみんなに伝えてください」と最後の言葉を言い残し、刑場に入ったという。私は歯がみするように悔しかった。


武田さんは、アメリカの国立公文書館に残されている、死刑宣告を受ける成迫の写真を手に、目を伏せて、つぶやいた。

「美男子で優しい人やったんや。ああ、なんと、なんとも、戦争ちゃむごい」

(エピソード74に続く)

*本エピソードは第73話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの
#55 特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ
#56 証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」
#57 証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも
#58 獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐
#59 特攻隊長は“悟り”をひらいた 死刑囚の棟での信仰「人間は宇宙そのものだ」
#60 特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ
#61 死刑執行が決まった日「元気でゆけよ」「さよなら」特攻隊長はとぼけた顔をして
#62 特攻隊長の遺書「原爆で死せる人間を生かしてくれたら喜んで署名しよう」死刑執行前夜
#63 夜には死刑執行「この俺を殺さんとするのは空気を棒でたたく様なもの」不屈の特攻隊長
#64 死刑目前 特攻隊長の歌「わが最後の夜とも知らず 帰りつつあらむ老母思ふ」
#65 あと26時間の命と知った特攻隊長「人間その境遇になれば誰でもこんな心境に」
#66 今夜、絞首台に上る特攻隊長「人生は量にあらず、質にあり」最後の日に綴ったこと
#67 死刑執行まであと10時間「この先も最後まで私の全力を尽くします」特攻隊長の信念
#68 トルストイ「戦争と平和」に胸打たれた特攻隊長 遺書の最後は「元気に朗らかに仲よく」
#69「暴力の源は戦争を生む近代文化と個々の心にひそむ」戦犯たちの最期を見届けた教誨師が訴えた
#70 戦犯たちの「必死の思い」遺書をまとめたのは26人の仲間を見送った元死刑囚
#71「眉目秀麗な村で唯一人の大学生」26歳で処刑された下士官の姿を探して
#72 死刑執行された下士官の姿を探して「これは忠邦さんに間違いない」泣き崩れた94歳
#73 スガモプリズンで叶わなかった面会「ストップ!」とMPに阻まれ カービン銃をつきつけられた男性

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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