石垣島で米軍機搭乗員3人を殺害した「石垣島事件」で、BC級戦犯として死刑執行された28歳の藤中松雄ら7人。そのうち26歳で命を絶たれた成迫忠邦は、最年少の下士官だった。大分県佐伯市の500戸の集落出身の成迫は、村で唯一の大卒の若者。「眉目秀麗だった」という成迫の写真を特定しようと、アメリカの国立公文書館が所蔵する写真を手に、大分県へ向かった。訪ねたのは94歳の男性。成迫は、戦死した兄の友人で、面識があった。写真を見た男性はー。

◆写真を確認できる男性に連絡が取れた

石垣島事件で判決を受ける男性 1948年3月16日(米国立公文書館所蔵)

成迫忠邦の故郷は、大分県佐伯市木立。この木立在住の武田剛(こう)さんという方が、地元の歴史を調査研究している佐伯史談会が発行した「佐伯史談210号」(2009年7月)に、「成迫忠邦さんの思い出」という文章を残していた。武田さんにお電話をしてみると、ご高齢のため、電話の声が聞き取りにくいということだったが、「成迫忠邦」という名前を出すと、声のトーンが変わった。

「武田さんは、成迫忠邦さんをおぼえていらっしゃいますか?」
「はい、わかります。成迫さんを忘れたことは一日もありません」
「成迫さんの写真を見たら、この人だとわかりますか」
「はい、わかります」

武田さんは力強く答えてくださった。2024年6月。私たちは佐伯市へ向かった。

◆海軍基地がおかれ「軍都」として発展した佐伯

明治時代 佐伯湾での演習風景(佐伯市HPより・佐伯市教育委員会所蔵)

佐伯市といえば、豊後水道の喉元に位置し、観光スポットとしては「寿司」のまちとして有名だが、歴史をみれば海軍と関わりが深い地だった。

1934年(昭和9年)に、日本で8番目の海軍航空隊が佐伯におかれたが、それ以前、明治時代後半から毎年のように演習のため艦隊が集結していたという。つまり、「軍都」として街が発展したという経緯があった。

日中戦争や真珠湾攻撃では重要な役割を担う地となったが、それゆえに終戦間近には航空隊基地の存在が攻撃の標的となって、度々、空襲に見舞われたという。

◆戦争体験の「語り部」

武田剛さん

成迫忠邦の故郷、木立は、海沿いのエリアからは15分ほど山に向かって車を走らせたところだった。武田さんの自宅は、緑に囲まれていた。

1929年生まれの武田さんは、終戦時16歳。ご自宅には武田さんが描いたという油絵がたくさん飾られていた。こども時代の佐伯は、海軍景気で沸いていた。佐伯湾に停泊する軍艦を見に行って、戦艦の名前をおぼえたという。1941年には戦艦や航空母艦、巡洋艦など数十隻で構成された艦隊も山頂から見ていた。真珠湾攻撃の直前だったという。

6歳年上の兄はサイパンで戦死。空襲で遺体を目の当たりにしたり、機銃掃射で吹き飛ばされたりした。そうした体験を地元の小中学校で話していたそうだ。

◆忠邦さんの写真じゃよ

武田さんが描いた絵

まず、「スガモの父」、田嶋隆純教誨師の遺品にあった、白い海軍制服姿の青年の写真をおみせした。武田さんはじっと見ていたが、確信を得られないようで、何も言わなかった。次に、横浜裁判で判決を受ける青年の写真を見てもらった。こちらはアメリカの国立公文書館が所蔵しているものだ。武田さんはこの写真もしばらく凝視していたが、写真を手にしたまま、すっと立ち上がると、戦死した兄や妻らの遺影が並ぶ仏壇のほうに移動した。そして、「忠邦さんの写真じゃよ」と言って、嗚咽を漏らした。

考えてみれば、この判決を受ける青年が成迫忠邦であるとすれば、宣告されている判決は「死刑」ということになる。武田さんは写真の人物が成迫であると認識した瞬間に、気持ちがこみ上げたようだった。しばらくして、武田さんはもとのイスに戻られたが、「これは忠邦さん、間違いない」とつぶやくように言った。

◆パインの缶詰とクワガタの思い出

仏壇の前でむせび泣く武田さん

武田さんには、小学生のころ、中学生の兄に連れられて成迫家を訪ね、当時はめったに口にできなかったパイナップルの缶詰を御馳走になり、さらに空き缶一杯に成迫がクワガタを捕って詰めてくれたという思い出があった。

そして、成迫が死刑判決を受けたあと再審でも死刑となり、当時村長だった武田さんの父がその知らせを成迫家に伝える役目となっていた。父がふすま越しに泣いていたのを武田さんは聞いていた。実はそのあと、武田さんの父は急死してしまったのである。

(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)「佐伯史談210号」(2009年7月)
「お父さんが倒れた。早くこれに乗って帰れ!!」と言う。自転車に飛び乗って帰ったら、父は忠邦さんの家に行く途中、我が家から1キロ程の所で倒れ、戸板に乗せられていて、その場で医師の治療を受けていた。狭心症だと言う。

武田さんの父は、役場の職員に成迫家への伝達を遺言して、翌日息を引き取った。1949年3月9日のことだ。56歳だった。内ポケットに入れられていた成迫の「再審も死刑」の知らせは、葬儀が終わってから職員によって成迫家に届けられた。

◆死刑囚からのお悔やみの手紙

成迫忠邦からのお悔やみの手紙

(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)
父の死は成迫家から巣鴨拘置所の忠邦さんに知らされたのか、忠邦さんから丁寧なお悔やみに手紙が届いた。死刑囚からのお悔やみの手紙である。薄い便せんの四枚にびっしりと書かれている。母はそれを読み、せき上げて泣いた。お悔やみの文のあとに、「自分はもう佛のふところに抱かれたような気持ちである。決して心配してくれるな」という悟りのような事を書いているのが何ともやりきれなかった。しかしその手紙の終わりに数首の歌が添えられてあった。その中の一首。


 盂蘭盆(うらぼん)のひと夜衣とりかえて 我と踊りしかの少女はも

以来私は盆踊りがつらい。


武田さんは、この手紙を大事にとっていた。金庫の中から出て来た、「死刑囚からのお悔やみ」は、小さな字で丁寧に便箋いっぱい、びっしりと書かれていた。

緑に囲まれた静かな村には、悲しみが立ちこめていたー。
(エピソード73に続く)

*本エピソードは第72話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの
#55 特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ
#56 証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」
#57 証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも
#58 獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐
#59 特攻隊長は“悟り”をひらいた 死刑囚の棟での信仰「人間は宇宙そのものだ」
#60 特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ
#61 死刑執行が決まった日「元気でゆけよ」「さよなら」特攻隊長はとぼけた顔をして
#62 特攻隊長の遺書「原爆で死せる人間を生かしてくれたら喜んで署名しよう」死刑執行前夜
#63 夜には死刑執行「この俺を殺さんとするのは空気を棒でたたく様なもの」不屈の特攻隊長
#64 死刑目前 特攻隊長の歌「わが最後の夜とも知らず 帰りつつあらむ老母思ふ」
#65 あと26時間の命と知った特攻隊長「人間その境遇になれば誰でもこんな心境に」
#66 今夜、絞首台に上る特攻隊長「人生は量にあらず、質にあり」最後の日に綴ったこと
#67 死刑執行まであと10時間「この先も最後まで私の全力を尽くします」特攻隊長の信念
#68 トルストイ「戦争と平和」に胸打たれた特攻隊長 遺書の最後は「元気に朗らかに仲よく」
#69「暴力の源は戦争を生む近代文化と個々の心にひそむ」戦犯たちの最期を見届けた教誨師が訴えた
#70 戦犯たちの「必死の思い」遺書をまとめたのは26人の仲間を見送った元死刑囚
#71「眉目秀麗な村で唯一人の大学生」26歳で処刑された下士官の姿を探して
#72 死刑執行された下士官の姿を探して「これは忠邦さんに間違いない」泣き崩れた94歳

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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