世界最大の秘密結社…とも言われる友愛団体「フリーメイソン」。長崎の有名な観光地には熱心に活動していたフリーメイソンの痕跡を刻んだ「あるもの」が残されている。

フリーメイソンとは?

小説や映画では"陰謀論”も渦巻くフリーメイソン。
長崎市発行の「新長崎市史」によると【フリーメイソンは、中世のイギリスで数々の大聖堂を建てた石工たちによって始められた友愛団体である。広い職種の人がその後参加するようになったが、団体のシンボルであった定規、コンパスやその他の工具はフリーメイソンの理想である平等と正義の象徴として存続した】と紹介している。「メイソン」とは「石工」のことなのだ。

フリーメイソンと長崎

なぜ「長崎市史」にフリーメイソンの紹介があるのか?実は日本を最初に訪問したフリーメイソンは長崎に住んでいた。

日本が鎖国をしていた18世紀末に、出島オランダ商館長を務めたアイザック・ティチング。彼が、記録上日本に初めて居住したフリーメイソンとされている。

そして1885(明治18)年2月、長崎市にフリーメイソンのロッジ(集会所)が発足。熱心な会員のひとりだった英字新聞の編集者アーサー・ノーマンが、「松ヶ枝町四十七」にあった自社の2階を提供。敷地の入口にフリーメイソンのマークを刻んだ門柱を建てた。この門柱が、今もなお長崎の観光地に残されている。

有名観光地に残る「フリーメイソン」

その場所は「グラバー園」。学芸員の松田恵さんに案内してもらうと「旧リンガー住宅」の横にそれはあった。

グラバー園学芸員 松田恵さん:
「コンパスと定規を重ね合わせた感じになってるんです。これは石工の人達に必要な道具。それがマークになっています」

フリーメイソン達が活動した拠点のロッジ(集会所)の門柱。それは、「旧リンガー住宅」の傍らに移設されていた。高さ3メートルは超える左右の門柱には、当時ついていたであろう鉄の扉の上枠もくっついている。

柱の一番上には、フリーメイソンのシンボルマークが刻まれている。左の柱のマークはほとんど見えなくなっているが、右ははっきりと確認できた。

グラバー園学芸員 松田恵さん:
「門柱は一般的に自分の建物の正面にたてるもので、大浦界隈の商社が並んでいた通りに、同じような門が並んでいる写真があります」

「三菱にやってきた外国人の技術者の中に会員がいた。集会所を作ってマーク入れた。でも具体的な活動内容は分かっていません。でも彼らが長崎にいたこと、活動していたことは確かです」

長崎で何をしていた?

長崎のフリーメイソンの会員の大半は、三菱長崎造船所に勤めるイギリス人たちだった。初代グランドマスター(ロッジ長)に選ばれたのは、長崎造船所の初代マネージャーのスコットランド人、ジョン・コルダー(JohnCalder)。ちなみに、コルダーの住宅は現在愛知県の明治村に移築保存されている。

最盛期の明治30年代前半には、数十人のフリーメイソンが長崎に在住していた。松田さんによると、長崎のフリーメイソンの会員名簿も残っている。しかし具体的な活動内容は記録されていない。名簿の中にはトーマス・グラバーの名前も、フレデリック・リンガーの名前もないという。

長崎に眠る会員たち

「ナガサキ・ロッジ」は発足の30年後の1919(大正8)年に活動を中止。大浦47番地の洋風建築も戦後に取り壊された。

表の門柱だけが保存され、当初は旧グラバー住宅と旧リンガー住宅の間にあるテニスコート跡に移された。そして1971(昭和46)年に始まったグラバー園の整備で、旧リンガー住宅の真横に移され現在に至る。

様々な情報を得られる場所だった「ロッジ」。開国後、急速に西洋化、近代化が進んでいった日本で、フリーメイソンは何を話しあっていたのだろうか?長崎の国際墓地には今も数人の会員が眠っており、彼らの墓標には門柱と同じシンボルマークが刻み込まれている。

ことし開園50周年を迎えたグラバー園では、「フリーメイソン」も取り上げた「グラバー園のあゆみ展~観光地で生まれたうわさと今~」を開催中。1885(明治18)年10月5日に開催された「ナガサキ・ロッジ」初の集会を呼び掛ける文書も展示されている。企画展は2025年3月31日まで。

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