長崎市在住の詩人で児童文学作家の藤川幸之助さん(62) 。11月13日に92年の生涯を閉じた詩人・谷川俊太郎さんの作品に影響を受け、詩を作り始めた。谷川さんとの共著も実現し交流を深めてきた。谷川さんが「一日一食」だと聞けば、自分も一食にしてひもじい思いをしながらも過ごす。谷川さんが「ビールの後に日本酒1合」を飲めば自分も。「朝8時に起き、内転筋を鍛え、原稿の締め切りに遅れたことがない」と聞くと、よし自分も!と奮起した。「当たり前ですけど、結局谷川さんのような詩は書けません(笑)」。全身でその背中を追いかけてきた藤川さんが、谷川俊太郎さんの旅立ちに、今思う事は。

谷川俊太郎の詩との出会い「こんぐらかった道です」

藤川幸之助さん、長崎市在住の62歳。小学校教諭を経て、認知症の母親の介護経験をもとに、「命」や「認知症」を題材にした作品を作り続けている。

藤川さん:
「谷川俊太郎さんの詩と出会ったのは、大学生の頃でした。19歳くらいだったかな。僕は高校時代にバンドを組んでいて、その流れで作詞や作曲もしていたんですけど、「詩」はあまり読んだことがありませんでした」

「ちょうど自分の人生について迷っている時期でもあって。ただふらっと入った図書館で、目の前の書棚にあった本のタイトルに惹かれて手に取ったのが、谷川さんの詩集『日々の地図』(集英社、1982年)。開いたページに載っていた『道』という詩に『こんぐらかった道です』とあったんです。…自分のことだと思いました。気づけば、谷川さんの詩に引き込まれて『こんなことやってる場合じゃない!文学を始めなければ』と」

「谷川ですけど」突然本人から電話

それまで「現代詩」について「わからないもの、わかりにくいもの」だと思っていた藤川さん。しかし、谷川さんの詩は「わかりやすい言葉」で「生きる本質」を書いていた。その言葉は藤川さんの考えを変え、生き方も変え、詩人へといざなっていく。

小学校の教員をしながら詩を書き、認知症の母の介護の日々も言葉にするようになった。谷川さんの作品は全て読んだ。力をもらい、勇気をもらい、介護の日々の中でひたすら詩を書いた。

藤川さん:
「この写真は、私が教師を辞めて詩人の道を歩み始めた翌年の2002年10月。長崎市の活水女子大学で行われた『クレーの天使』という谷川俊太郎さんと、息子の谷川賢作さんのコンサートに行った時のものです」(「写真を見る」から見ることができます)

「私が詩人になるきっかけとなった谷川さんの詩集『日々の地図』を持参し、サインをしていただきました。まさかこの6年後に、谷川さんと一緒に詩集を作ることになるとは…。この時は考えもしませんでした」

藤川さんが谷川さんと直接かかわるようになったは、2008年。その「縁」は突然舞い込んできた。

藤川さん:
「出版社の編集担当者から『谷川さんと詩集を作りませんか?』と言われまして…。その時の僕は『あの谷川俊太郎が、田舎に住む一詩人を相手にするわけないじゃないか』としか思いませんでした。だって、あの谷川俊太郎ですよ!でも、しばらくして電話がかかってきて『谷川ですけど…』って言うんです。『どちらの谷川さんですか?』って聞いたら、あの谷川俊太郎だった!しかも『藤川さん、一緒にやりましょうよ』って。そこからは、それこそ夢のようでした」

僕の手土産のカステラを

共著『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規、2008年)。巻末には、谷川さんの自宅で行われた対談がおさめられている。自宅を訪問した時の思い出を、藤川さんは生き生きと話す。

藤川さん:
「谷川さんのお宅にお邪魔しての対談でした。訪問前には、服装はこれでよいだろうか…とあれこれ考えて。お宅にお邪魔してからも緊張でガッチガチでした」

「谷川さんのお父様(※哲学者の谷川徹三さん)とお母様の写真、それから大きな満月の写真が部屋に飾ってあったのは覚えています。谷川さんが『藤川さん、もう少し気楽にやりましょうよ』と言って、お茶を出してくださったり、僕が手土産に持って行ったカステラまで出してくださったり(笑)『満月の夜、母を施設に置いて』は、谷川さんのお陰でよく売れました(笑)」

繋がった「縁」。2人の詩人の出会い。共著出版以来、谷川さんは藤川さんの詩集の帯にも、言葉をおくってくれるようになった。

『まなざしかいご 認知症の母と言葉をこえて向かいあうとき』(中央法規、2010年)
ー愛と苦しみから 生まれた 言葉なき「まなざし」こそ、 詩の源。 そこには 深い知恵が ひそんでいる。ー

『支える側が支えられ 生かされていく』(致知出版、2020年)
ー「混沌を生きる母のいのち 愛を貫いた父のいのち 詩で立ち向かう息子のいのち それぞれのいのちが愛おしい」ー

谷川さんが書いた藤川幸之助

藤川さんが、谷川さんの『僕はこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』(ナナロク社、2010年)を読んでいた時のことだ。

藤川さん:
「『藤川幸之助さんという方なんですけど…』と僕のことが書いてあったんです!『現実に基礎をおいた詩は強いなと感じました』というような内容で…。もうびっくりしました」

「その頃の僕は『人をびっくりさせるようなものを書きたい』、『芸術的なものを書きたい』ともがいていました。でもそれを読んで決まりました。『このまま自分の生きる姿を書いていこう』。それはつまり『谷川さんの一部分を引き継ぐことだ』と」

僕のお手本、谷川さんの「じゃあねえ」

認知症の母親を2012年に亡くすまで、介護をしながら、感じたことを詩に書いてきた藤川さん。母親が生きていたころ、谷川さんに言われた忘れられないことばがある。

藤川さん:
「谷川さんは僕に「お母さんが亡くなられた後、藤川さんがどんな詩を書くのか楽しみだな」と言いました」

「僕にとってそれはとてもプレッシャーでした。でも結局僕は母が亡くなった後も変わらなかった。『生活に根づいたことば』を、ずっと書き続けているんですよね」

「それからもう一つ。これを思い出すと泣きたくなるんですけど…。谷川さんは電話を切る時いつも『じゃあねえ』って言うんです。その『じゃあねえ』にこもっている親しみといったら…。僕もこんな風に言いたいなと思わされました。あの『じゃあねえ』は、僕にとってお手本ですね」

『ことばは声にすると起き上がってくる』

藤川さんは、全国各地で「詩の朗読」を交えた講演活動も精力的に行っている。

藤川さん:
「講演は、2000年に詩集『マザー』(ポプラ社・2000年)を出した頃から依頼が入るようになりました。詩の朗読を交えながら認知症の母のことを話す内容なのですが、どんどん依頼が増えていって年間70回を超えた年もありました。そうなると、詩を書く時間がなくなってきて…」

「詩人として独り立ちしたのに、講演ばかりで詩を書く時間がないとは本末転倒だ!講演を止めようと思ったんです。そんな折、谷川さんから『ことばは文字のままだと寝たままだが、声にすると起き上がってくる』というような話を聞いたんです」

「講演で、認知症の母のことを書いた詩を朗読して、聞いている方々が涙ぐむ姿を見た時、本の中で寝そべっていた私のことばが立ち上がって、私の思いを連れて人の心に響いているのを感じました」

「詩のことばの後ろには豊かな世界が広がっていて、詩は朗読されて初めて、その本当の姿を現す時があるのだ、と思いました。詩を、声の響きで伝える大切さを実感しました」

「『朗読も含めて詩の存在ではないか』と思うようになり、以来講演もしっかり大切にするようになりました」

谷川さんのことばに支えられて、講演は2024年5月に500回を超えた。

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