お母さんが初めて自分で作った作品を持って私に写真を撮らせてくれたが、恥ずかしがって顔を上げなかった
<自作したその小さな巾着袋を、買いたいと言う人もいたという――。在日中国人ジャーナリストの趙海成氏は、荒川河畔の女性ホームレスの過酷な境遇を聞いて、彼女のためにできることを探した。連載ルポ第7話>
※ルポ第6話:ホームレスたちと河川敷で寿司パーティー、そして「お母さん」と感動の再会をした より続く
私は2回目の「お母さん」(編集部注:荒川に住むホームレスの老婦人のこと)との出会いがとてもうれしかった。彼女のテントの前に座って、お母さんが出してくれた焼酎を飲みながら話し合った。
お母さんはまた、自分の人生経験をたくさん話してくれた。その話の中には、彼女と息子がどのようにホームレスの道を歩んできたのかも含まれていた。
お母さんの故郷は日本の東北地方で、車があり、家があり、平凡な生活だった。しかし、息子は不注意が原因である事件に巻き込まれ、後を追われた。お母さんはそれを知って、思い切って息子を連れ、住んでいる所を離れて「避難」することにした。
当時、結婚して別の地方に住んでいた娘は「ママは私の家に来て一緒に暮らせばいい」と言ってくれたという。
しかし、その弟である息子は「いいから、お母さんの面倒は俺が見てあげるから」と言って、取り合わなかった。
お母さん自身も嫁に行った娘に迷惑をかけたくないと思っており、結局、息子と2人で、自家用車で東京に逃げた。
上京後は駐車場に車を停め、親子で野宿生活を送り始めた。
だが、長い間駐車料金を払わなかったため、その後、車は持って行かれてしまった。車と同時に失われたのは、車両の中に置いてあった彼女の免許証だった。
つまり、お母さんは息子のために家を捨て、車を捨て、故郷を離れ、放浪者に転落したのだ。
デパートですることは、買い物ではなく「巾着袋を作ること」
お母さんはもともと若い時からとても活動的で、運動や恋愛、時代の潮流を積極的に追求する女性だった。
バレーボールが好きで、50代の時にクラブの試合に出場した。60歳の時にはダンスに夢中になり、10年間社交ダンスをした経験がある。
80歳の高齢になった今も、彼女はとても元気で、腰がたまに痛いこと以外、大病がなく、耳と目と手足に不自由はなく、思考ははっきりしている。ホームレスになってから7〜8年が経ち、今ではこのような生活に慣れたようだ。それを聞いた私は、神様が彼女に元気な体を与えてくれていることに感謝している。
私はお母さんに聞いた。「今は毎日、何をしていますか」
彼女は「ちょっと待ってください。あなたに見せたいものがあります」と言った。
彼女はテントの中に入り、再び出てきたときには手にビニール袋を持っていた。中には色とりどりのとてもきれいな巾着袋がたくさん入っていた。これらの巾着袋はすべて彼女が一針一針縫ったものだと言った。
普段は毎日午前中、デパートが開くと同時に入っていくという。目的は買い物ではなく、デパートの中で席を探して座り、数時間でこの小さな巾着袋を縫っているそうだ。
興味のある人はお母さんのそばで見ていて、縫製技術を教えてほしいと言う人もいれば、お母さんの巾着袋を買いたいと言う人もいた。
お母さんはコスト分だけをもらって売ったことがある。彼女は1個の小さな巾着袋を縫うのに約3時間以上かかる。小さな巾着袋1つの材料費は、500円ほどになるそうだ。
私はお母さんに言った。「はい! わかりました。お母さんの物語を書いて、友人など多くの人に読んでもらい、巾着袋を1000円で売り込みます」
お母さんは慌てて、「1000円で売るのは高すぎませんか?」と言った。
私は答えた。「材料費は500円で、それに3時間の手間賃を加えると、1000円は高くありませんよ。私は先に10個を購入して売ってみますから、今すぐに1万円を前払いしてもいいです」
お母さんは承諾して、「申し訳ありません」と言ってくれた。
お母さんは自分で縫った小さな巾着袋を取り出し、木の板でできた机の上に並べたお母さんの「愛の巾着袋」が次々に中国人に売れた
今回お母さんと再会して、私は彼女の波乱の人生経験についてもっと多くの理解を得た上に、お母さんの生活を支援し、将来の人生に希望を持たせられる道を見つけた。
喜ばしいことに、私が「モーメンツ(微信〔WeChat〕の情報共有機能)でお母さんの「愛の巾着袋」の「代理販売」を発表した初日に、10個の巾着袋はすべて、ある中国人の女性が買ってくれた。
その後、その女性は中国に帰省し、小さな巾着袋は向こうの親戚や友人にプレゼントしたという。彼女の後にも、もう1人の男性と2人の女性が私を通じて9つの小さな「愛の巾着袋」を買ってくれた。思いやりのある彼らに、心から感謝の意を表したい。
一方、お母さんと知り合ったことは、私の生活にまた心配事を増やすことにもなった。
特に台風が襲来した際に私が最も心配しているのは、お母さんを含む、荒川河川敷の森に住むホームレスの友人たちの安否だ。
日本の台風が多発する時期は、6月から9月の間である。被害を未然に防ぐために、私は昨年の秋からテントやキャンプ用のランタン、防寒下着などを含むアウトドア用品を次々と桂さんと斉藤さん(共に仮名)に贈った。
今年に入ってお母さんと再会した後も、雨の日用の長靴やキャンプ用のランタン、防寒用のカシミアソックスなど、防災グッズを贈った。
これらのものは、2023年5月末から6月頭にかけて台風2号が襲来したときに役に立った。
特に、私が中古店から1000円で手に入れた大きなテントは、桂さんと仲間たちが堤防で台風の最初の夜を無事にやり過ごすときに役目を果たした。それを聞いてとても嬉しかった。
しかし、私のしたことすべてが効果があったわけではない。
台風2号が襲ってきたあの日、お母さんの過酷な境遇に対して、悲しくも私は何も助けてあげることができなかった。
台風が近づき、私は息子に期待していたのだが
5月中旬、日本では台風2号が上陸するとの予報が出て、住民に防災準備の注意喚起がなされた。当時私はお母さんの状況を考えたが、特に心配はしていなかった。彼女の話では、もう息子と相談して、近いうちに新しいテントを買って、川から少し離れた空き地に移るつもりがあるとのことだった。
私はお母さんに「あなたが引っ越すとき、手伝ってあげましょう」と言った。
彼女は「息子と二人でできることなので、人に迷惑をかけたくない」と言ってくれた。
そう言われても、私は彼女に携帯電話の番号を残して、用事があるときに公衆電話で私に連絡するように言った。
5月24日、その日はお母さんの80歳の誕生日で、私は果物とケーキを持って彼女のためにお祝いに行った。
その時、お母さんは私に、息子が近いうちにテントを選んで購入し、ここに建てに来るのだと言った。
私はそれを聞いて安心した。そして、何か実用的なものを母さんの引っ越し祝いとしてあげたいと思った。
5月30日の夕方、東京では雨が降り始め、31日は一日中降った。6月1日になると、雨はますます激しくなった。
私の住んでいる家のドアや窓は、嵐に打たれてパタパタと音を立てた。窓が閉まっていないので、窓側の床が濡れていた。
この景色を見て、私は自問自答した。
「お母さんの所は大丈夫だろうか。彼女の息子は事前にこの台風の予報を聞いていたはずだし、早めにお母さんのために適切な準備をしていたはずだ」
しかし、その後の実際の状況は私をがっかりさせた。
私の「べき」はすべて「思い込み」にすぎない。良く言えば自己慰め、悪く言えば自己欺瞞だ。
実は私は知っている。お母さんは携帯電話を持っていない。息子は携帯電話を持っているとはいえ、他の人に貸してもらっているそうだ。
お母さんと息子にとって、連絡を取り合うのは骨が折れることだ。荒川の近くに公衆電話ボックスはない。お母さんが息子に電話するには、3キロ先の赤羽商店街まで行かなければならない。
そして電話をかけても、息子が出るとは限らない。電話に出ても、彼を呼んですぐ来られるわけではない。
息子が来ることができても、交通手段は自転車だけで、お母さんの所までは少なくとも1時間半かかる。だから、嵐が襲ってきたとき、この息子が戻ってきて自分のお母さんを救うことを期待するのは、中国語で言う「痴人说梦」、まるで愚かな人が語る夢物語だ。
お母さんのテントから少し離れた場所に住んでいるホームレスの桂さんは、4年前に恐ろしい洪水を経験した。
当時まだ若くて体力のあった桂さんも、逃げるのが早くなかったら命を失っていたかもしれない。ましてや、80歳を過ぎて腰や脚に痛みを抱える老人なら、そのような状況では十中八九命を落としていただろう。
大雨の後、荒川沿いの砂利道は「小川」に、ゴルフ練習場は「池」になった不幸中の幸いで、この台風2号は猛威を振るっていたが、荒川の水を氾濫させるほどではなかった。
豪雨は6月3日の朝にやっと止んだ。気象庁によると、6月3日13時の24時間降水量は、静岡県御殿場市で435ミリ、神奈川県相模原市で242.5ミリ、東京都心は218ミリで、いずれも6月の最高を更新した。東京以外の県や市では死者も出ている。
この台風2号がお母さんの生活にどんな影響を与えたのか、彼女のその後の状況はどうなったのかは、次回(第8話)に語る。
※ルポ第8話(10月16日公開予定)に続く
※ルポ第6話はこちら:ホームレスたちと河川敷で寿司パーティー、そして「お母さん」と感動の再会をした
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した――在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。
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