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<ホメイニから殺害予告を受けて、33年後、実際に襲撃された作家サルマン・ラシュディ。彼が新作『ナイフ』で事件を振り返る>
作家サルマン・ラシュディが狂信的な男に襲われたのは、イランの最高指導者ルホラ・ホメイニ師(当時)がラシュディに死刑を宣告するファトワ(宗教令)を出してから33年のある日のことだった。
実行犯は、そのファトワの発端となったラシュディの著書『悪魔の詩』を読んでいなかった。ホメイニも読んでいなかった。当時のホメイニはイラン・イラク戦争の屈辱的な結末にいら立ち、国民の不満が自分に向かうのを防ぐために、わざと『悪魔の詩』を反イスラムの書に仕立てた。それだけのことだ。
2022年8月12日、ラシュディはニューヨーク州西部の保養地シャトークアで開かれた文学祭に参加していた。共に壇上にいたのはヘンリー・リース。さまざまな迫害から逃れてきた作家たちを守り、彼らが自由に書ける環境を提供する非営利団体「シティ・オブ・アサイラム」(本部ペンシルベニア州ピッツバーグ)の創設者だ。
たった27秒の間に──シェークスピアの14行詩を一つ読める程度の時間だと、新しい自叙伝『ナイフ』(未邦訳)でラシュデイは書いている──その男(あえて男の名を記していない)はラシュディに襲いかかり、ナイフを何度も突き刺し、左手の腱と神経を切断した。
ラシュディは倒れたが、意識はあった。死なずに済んだのは勇敢なリース(彼も殴られて負傷した)と現場に居合わせた医師、救急隊員のおかげだ。
健康の回復には長い時間がかかり、今までどおりの暮らしはできなくなった。ナイフはラシュディの右目を貫き、視神経を破壊した。首も、他の臓器も刺されたが、命取りになる動脈や静脈は無事だった──この男が殺しのプロではなかった証拠だ。
思想信条ゆえに人が殺されるなんてことは許せない。その信念を貫いて、ラシュディは生きてきた。
政治家であれ宗教家であれ、権力を乱用する者には従わず、愚直なまでに言論の自由を掲げてきた。想像し、考え、書き、疑い、反論し、挑戦する自由。自分の意思を貫き、理屈抜きで、笑い、嘲り、喜び、祝う自由。それを守るのが彼の思考と仕事、そして生きざまだ。
暴力に屈しない反抗の精神
後に自分と深く対立することになる人々の言動をも、ラシュディは擁護してきた。自分の不幸を願う人々にも、その自由があると信じてきた。気が付けば彼は有名人になっていたが、売名行為とは無縁だ。
そして自由という理想の火を消してはいけない(なにしろ闇の勢力は常にそれを消したがっているから)、そのために戦い続けてこそ自由は守れると説いてきた。2012年に出した最初の自叙伝『ジョセフ・アントン』では、あえて自分を三人称で書いた。自由を守るのは命懸けの闘いだと知っていたからだ。
イランで行われたデモで「ラシュディに死を」と叫ぶ少女ら(1989年) KAVEH KAZEMI/GETTY IMAGESあのファトワ以来、ずっと彼の命は狙われていた。『悪魔の詩』を日本語に訳したイスラム学者の五十嵐一は何者かに殺された。やはり『悪魔の詩』をイタリア語に訳したエットレ・カプリオーロも刺された(死は免れた)。『悪魔の詩』をノルウェーで出版したウィリアム・ニゴールも銃で撃たれた。
その一報を聞いたラシュディが電話をかけたとき、ニゴールはこう言った。「君が謝ることはない。私も大人だ。私は『悪魔の詩』を出版したいと思ったし、出してよかったと思っている。本当だよ、たった今、大増刷を決めたところだ」
新著『ナイフ』で、ラシュディは2年前の襲撃後に耐えなければならなかった苦痛と苦悩の日々を詳細につづっている。この本で最高に輝いているのは彼の妻レイチェル・イライザ・グリフィスだ。彼女の勇気、確信、支援、そして愛がラシュディの回復を助けた。
ラシュディは暴力に屈せず戦う意志の力を示し、勇気こそが勝利につながることを示した。肉体は傷ついても、彼の才能(言葉の連想、神話や文学作品や歴史から物語を紡ぎ出す驚異的な記憶力、そして遊び心)は少しも衰えていない。
今回の自叙伝で、ラシュディは22年の夏に襲撃の予兆を感じたと書いている。命を狙われる数日前の夜、彼は槍(やり)を持った男が襲ってくる夢を見た。それでも悪い夢が現実になるはずはないと、ラシュディは自分に言い聞かせた。しかし、あの日、彼は自分に向かって突進してくる逆上した男の姿を見た。
「おまえか。ついに来たか」。そう思ったとラシュディは書いている。「だが、なぜ今なんだ? 遅いじゃないか、なぜ今なんだ?」
なぜ今、という疑問は本心から出ていた。ラシュディはインドで最も国際的な都市ボンベイ(現ムンバイ)に生まれ、その後、多言語都市のロンドンに移り住んだ。
だがファトワが彼の自由を奪い、彼の著作に対する無慈悲で粗野な批判が続くなか、世紀の変わり目に彼はロンドンを離れ、誰にも束縛されない国際都市ニューヨークへ移った。ラシュディはやり直したかった。あのファトワの影から逃れたかった。『悪魔の詩』一冊だけの作家のように思われるのは耐えられなかった。
独立後のインド、それもボンベイで生まれ育った私たちにとって、ラシュディが1981年に発表した小説『真夜中の子供たち』は衝撃だった。あれを読んで、ああ英語は自分たちの言語なんだと感じた。外国語じゃない、英語は自分たちの言語なのだと。
筆者は1983年に、初めてラシュディに会った。『真夜中の子供たち』でブッカー賞を受賞した彼がインドに凱旋したときのことだ。ところがインドは他国に先駆けて、1988年に『悪魔の詩』の輸入を禁止した。事実上の発禁処分。なぜだ、と私たちは思った。
ニューヨーク州での講演中に襲撃されたラシュディ(2022年8月) AP/AFLO「20億人に憎まれている」
『悪魔の詩』ほど想像力に富む小説はめったにない。両義性や自我の分裂といった問題に真正面から取り組んでおり、そこでは天使が悪魔に、悪魔が天使にもなり得る。実に多層的な作品だ。
主人公となる2人の男は、乗っていた飛行機が爆発し、なぜかイギリスの地に降り立つ。その一方は正気を失い、自分が偉大な教えの預言者だと思い込む。そして幻覚の中で神の声を聞くのだが、いくつかの言葉は悪魔に吹き込まれたものとして拒絶する。イスラムの歴史に出てくる逸話を下敷きにしており、思索的な可能性に満ちている。
作中で、この人物は問いかける。
「おまえは妥協し、取引し、社会に順応して自分の居場所を見つけて生き残るのを選ぶタイプか。それとも強情で血の気が多く、吹き付ける風になびくよりもあらがって折れるのを選ぶタイプか。99回は粉々に打ち砕かれたとしても、100回目には世界を変えるようなタイプか」
この反逆精神こそがラシュディの真骨頂だ。『悪魔の詩』がたたえるのは移民であり、社会の周縁に追いやられた人々であり、異国の地に流れ着いて異質な規範を受け入れざるを得なかった人々だ。
あのファトワは究極の試練だった。ラシュディには、改心して無難でシンプル、誰をも傷つけない作品を書く道もあった。芸術家であることを追求するのをやめ、恐怖に屈してリスクを避ける道だ。あるいは復讐をもくろみ、怒りに満ちた作品を書く道もあったはずだ。
だが、いずれの道を選んでも、ラシュディ自身が選んだ語り部としての道からは遠ざかることになっただろう。「私が自分の意思で成し遂げた最高に偉大な行為の一つは、自分の作品の方向性が(ファトワのせいで)ぶれないように努めたことだ」。ラシュディはそうも言っている。
あのファトワが出てから、イギリス政府はラシュディを保護し、親しい友人たちはラシュディを擁護した。しかし人気作家のジョン・ル・カレやチャールズ皇太子(当時)をはじめとする多くの著名人はラシュディを批判し、他人の信仰をけなすのは行きすぎだと言ったものだ。
ラシュディは、イギリスの人種問題にも積極的に関わり、人種平等を訴え、激動の70年代の反人種差別運動にも参加した。「イギリスを白人の国のままに」を意味する「KBW」という落書きが移民地区に出現するようになると、声を上げて抗議した。だがファトワ宣告以降は、イギリス国内でも『悪魔の詩』に火を付けて燃やす人が現れた。
『ナイフ』には、著者が自身を襲った男と想像上の対話をする箇所がある。そこで男は、ラシュディにこう告げている。「おまえは世界中で20億の民に憎まれている......おまえは虫けらで、俺たちに踏みつぶされる運命だ」
ラシュディにとって不本意だったのは、『悪魔の詩』を最初に発禁処分にしたのが自身の生まれたインドだったこと、そして22年に襲撃された事件について、ヒンドゥー至上主義のインド政府がこれといった発言をしなかったことだ。もちろんラシュディも、インドのナレンドラ・モディ首相の政治を評価する発言は一切行っていないのだが。
ラシュディは2000年に渡米した。「生命、自由、幸福の追求」を望んだからだ。ニューヨークに来た当初は苦労したものの、その後は成功した。ラシュディに近づくのを尻込みする人もいたが、ためらいを断ち切る唯一の方法があるとすれば、自分が何も恐れていないかのように振る舞うことだとラシュディは考えた。
怖がる必要は何もないと相手に示すためだった。やがてラシュディはギャラリーやパーティーに、レストランや公園にも姿を見せるようになった。そして自由のために声を上げ続けた。
老いても、刺されても
その後、ラシュディは妻の愛情を通じて幸福を見つけ出した。だが幸福について書くのはたやすいことではない。ラシュディは仏作家アンリ・ド・モンテルランの言葉を引用している。
「幸福とは、白いページに白いインクで書かれるものだ」
ラシュディは新著『ナイフ』で、家族や親しい友人たちからの特別な愛情や、医療従事者による手厚い治療のおかげで手にした「時間」という贈り物をどう使えばいいのかと自問している。
彼としては自分本来の姿、つまり書斎に籠もって物語を紡ぎ出す作家であり続けたいと思っている。以前は、あの事件のことは書きたくなかった。しかし、気が変わった。なぜか。
「書けば、あの日の出来事を自分のものにできるからだ。単なる犠牲者であることを拒むことができる。暴力には小説で応える。それが私の流儀だ」
憎しみよりも愛、偽りよりも真実、妄信よりも疑念、従順よりも反抗、雑音よりも芸術。彼のそういう信念は決して揺るがない。
三人称で書かれた自叙伝『ジョセフ・アントン』は、あのファトワを宣告された自分から一歩離れて、他者の目で己を見つめるような作風だった。しかし今度の『ナイフ』は堂々と一人称で通した。
ラシュディはマンガ通でもある。初めてソーシャルメディアに参加したときは、偉大な「ポパイ」に敬意を表して “I yam what I yam”(おいらはおいら)と書き込んでいる。そう、ラシュディはラシュディ。老いても、刺されても。
From Foreign Policy Magazine
作家サルマン・ラシュディへのインタビュー映像
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