減量前の筆者(左)と96キロ減量後の筆者。「体重が減るにつれ、これまで気づかなかったような力が自分にあることに気づいた」 Aman Khan
<病院で目覚めたとき、家族が心配そうに覗き込んでいた。そのとき、減量をする新たな動機が生まれた。家族を残して自分だけ死んでたまるか── >
それは2018年の、いつも通りの忙しい日のことだった。私はオフィスで仕事をしていた。
突然、焼け付くような痛みが胸を刺し、息ができなくなって私は膝から崩れ落ちた。まだ25歳という若さだったのに、心臓発作に見舞われたのだ。当時は専門職として責任ある仕事を任されていたので、長時間労働もストレスも重圧も当たり前。当時の体重は160キロ。
病院のベッドで、私は両腕に管をつながれていた。心臓のモニター音が部屋に響いていた。私ははっきりと悟った。これは目を覚ませという私への「警告」だ----。
太りすぎの問題は見た目や生活上の不便だけではない。私はあと一歩で死にかけたのだ。ベッドの周りに集まった家族の顔には不安が刻まれていた。妻は泣いたせいで目の縁が赤くなっていたし、母は心配のあまり、実年齢より年老いて見えた。変わらなければ──そう悟ったのはその時だ。自分のためだけでなく、家族のためにも。自分の食習慣をコントロールできなかったせいで家族を置いてこの世を去るなんて、考えたくもない。
体重を健康的な水準まで戻す道のりは長く、厳しかった。毎日が、かつての悪習との戦いだった。まるで体が「やせるものか」と意地をはっているかのようだった。
まずは小さなことから始めようということで、私は糖分の多い飲み物をやめて水を飲むようにし、家の周りをウォーキングすることにした。その1つ1つが苦しかった。健康的な食生活もつらかった。だが私は、「生きたい」という新たに手にした目的意識に燃えていた。
スランプから救ってくれた母の一言
少しずつ体重が減り始めると、これまで気づかなかったような力が自分にあることに気づいた。さらに努力を続け、小さな目標を立ててはそれが達成されるたびにお祝いをした。体重は5キログラム、10キログラム、20キログラムと減っていった。周囲の人々もそれに気づいて応援してくれるようになると、私は決意も新たに減量に取り組んだ。
だが常に順調だったわけではない。時には足踏みすることもあった。体重計の数値が変わらなかったこともあったし、食べ慣れた好物を食べたいという耐えがたいほどの欲求に襲われることもあった。
そんなどん底状態の時のこと。体重は40キロ以上減っていたのに、鏡に映る自分は160キロの時と大差ないように見えた。不安が高まり、心の中では「目標達成など無理だ」という悪魔のささやきが聞こえてきた。
スランプから救ってくれたのは母だった。年老いた手でやさしく私の手を握りながらこう言ったのだ。「あなたのことが誇らしい。命のために戦っているのだもの。私があなたのために戦ったようにね」。母の言葉は稲妻のように私の心を打った。私は母がこれまでずっと、家族のためにその身を犠牲にしてきたことを思い、そしてそもそも自分が減量を始めた動機をあらためて思い出した。
年老いた母の世話もできないまま、その母を1人残して死ぬなんて考えるだけでも耐えがたかった。その時、私は母の目を通して自分の減量との戦いを見た──それは自分個人の戦いではなく、母の不屈の精神と愛の延長線上にあると気づいたのだ。
体重が減っていくのと反比例して、体力は向上していった。母と長い散歩をするとか、息切れせずに家事を手伝うといった、それまで無理だと思っていたことができるようになったのだ。ずっと行きたいとは思っていたけれど、体の問題で不可能だと思っていた巡礼の計画まで立てられるようになった。
今では体重は96キログラム減の70キログラムになった。変わったのは体だけではない。ストレスで疲れ果て、自意識過剰だった私はもういない。
新たな人生の夢も見つかった。減量に苦労している他の人たちを手助けするという夢だ。以前の重圧にさらされる仕事をやめて、私はフィットネストレーナーと栄養士の資格を取り、活動を始めた。私にできたことなのだから、みんなにもできるということを伝えるために。
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