ソウルの繁華街、江南に近いスラム街にも多くの高齢者が暮らす(2020年11月) JEAN CHUNGーBLOOMBERG/GETTY IMAGES
<年金制度の不備と核家族化の進行から極度の貧困に追い込まれる高齢者たち>
K-POPや韓流ドラマなどで世界中の若者たちの憧れの的となっている韓国は、世界で類を見ない高度圧縮成長を成し遂げた「奇跡」の国でもある。
朝鮮戦争直後の1953年の1人当たりの国民所得は66ドルで世界最貧国の1つだった。それから70年が過ぎた2023年の国民所得は3万3745ドルへと500倍以上に増加し、今や世界10位ほどの経済大国となった。国連開発計画(UNDP)が187の加盟国を対象に国民の総体的な生活の質を計量化した「人間開発指数(HDI)」によれば、22年の時点で韓国はアメリカと日本を抜いて世界で19番目に暮らしやすい国となっている。
だが、この豊かで暮らしやすい国を築き上げた韓国の高齢者たちは、いま世界で最も過酷な環境に置かれている。年長者を敬う儒教の伝統から、韓国は長らく世界最高の「敬老社会」と称賛されてきた。しかし、OECD(経済協力開発機構)が加盟国を対象に集計を開始した09年以降、韓国は高齢者の相対貧困率(可処分所得が国民の中央値の半分に満たない人の割合)がずっとワーストという不名誉な地位にある。
華やかな首都ソウルの中心部に位置する鍾路3街(チョンノサムガ)は、社会の中心からはじき出された高齢者たちの「聖地」だ。3つの地下鉄路線が交差する交通の要衝であるこの場所には、ソウルだけでなく仁川市や京畿道など、地下鉄がつながっている各地から高齢者が集まってくる。韓国政府が高齢者福祉の一環として、84年から65歳以上を対象に地下鉄の無料乗車制度を実施しているため、交通費の負担がないからだ。
80歳のコという名の男性は、京畿道富川市にある自宅を朝6時前に出て地下鉄に乗り、7時頃に鍾路3街に到着した。まず近くの無料給食所に向かい、8時半から配られるおにぎりをもらうため列に並んだ。おにぎり1個で朝食を済ませると、200ウォン(1ウォンは約0.11円)の自販機のコーヒーを飲みながら鍾路3街のパゴダ公園に座って時間をつぶした。
一日も休めない無料給食所
午前11時頃になると、再び近くの無料給食所に足を運び、昼食を済ませる。昼食の後は、もう一度自販機のコーヒーを飲みながら、街中で同年代の人々が将棋を指すのを見物したり、公園を散歩したりして時間を過ごす。夕方になると、ラッシュアワーになる前に地下鉄に乗って家に戻る。
新型コロナで妻を亡くしたコは、ほぼ毎日、鍾路3街に通っている。一人息子とはもう10年以上も連絡が途絶えている。政府からの毎月約30万ウォンの基礎年金と、たまにありつける短期アルバイトの賃金がコの収入の全てだ。
「鍾路3街まで出ると、ポケットに400ウォンさえあれば2食とコーヒー2杯を飲むことができ、通り過ぎる人々を見物しながら時間を過ごすことができる」と、コは言う。地下鉄の無料乗車制度は、居場所のない高齢者たちには何よりありがたい福祉に違いない。
鍾路3街の一帯には、このような高齢者向けの常設の無料給食所が3カ所もある。いずれも民間団体が個人からの支援金を基に運営している。
このうち仏教団体が運営する無料給食所は、365日休むことなく、朝と昼の1日2回、500人余りの高齢者に無料で食事を提供している。担当者によると、コロナ禍の後は訪れる人が増えているが、不景気で支援がかなり減っていて運営は苦しい。
「以前ここに来る高齢者は200人程度だったが、コロナ禍が明けてからは増えた。コロナ禍の頃は全国の無料給食所がほとんど閉鎖されたため、地方から3~4時間かけて毎日来る人もいた」と、担当者は言う。「最近は物価が跳ね上がり、ご飯とスープ、おかず3種類でキムチも付かない粗末な食事しか出せないが、ここでしか食事を取れない人も多い。それを考えると、一日も休むわけにはいかない」
貧困に追い込まれた韓国の高齢者は、生計のために世界で最も高齢になるまで働かなければならない。韓国統計庁によれば、22年の時点で65歳以上の働く高齢者の比率は36.2%と世界最多だ。この数字はOECD平均15%の2倍以上高い。
ソウル市中区に位置する「シルバークイック地下鉄宅配」の募集条件はただ1つ、「65歳以上」。地下鉄に無料で乗れる65歳以上の高齢者が、地下鉄を利用して配達する業者だからだ。ここは韓国で最初に開業した地下鉄宅配便で、今年で創業23年。社長のペ・キグン(75)は、経営していた食堂が97年以降のアジア通貨危機で廃業に追い込まれた。家計が苦しかった01年、鍾路3街に集まっている高齢者を見て、この事業を思いつく。
「コロナ禍の前は宅配員が60人ほどいたが、今は30人くらいしか残っていない。平均年齢はたぶん75歳を超えているだろう。一番の年長者は89歳だったかな。それでもみんな1日に12時間以上は働いている」
警備員を72歳で退職し、ペの会社で配達業を始めて5年目になるチェ(77)は、毎朝6時半に事務所に出勤する。「出勤する順に仕事をもらえるので、早く来なければならない。水原市や仁川市のような遠方まで配達に行く日は、家に帰るのが夜10時を過ぎることもある」
宅配費はソウル市内の近距離なら1万ウォンで、遠方だと距離によっては最高3万ウォンになる。3割を会社に払って残った額がチェの1日の収入となる。連日12時間以上働くチェは、運がよければ1日に4回程度、ついていない日は2回程度の配達をこなし、手取りの収入は2万~3万ウォン程度。時間当たりの報酬は2000ウォン余りだ。24年の韓国の時間当たりの最低賃金が9860ウォンであることを考えれば、あまりにも安い。
「仕方ないよ。金は欲しいけど、働く所がない。まだ体が丈夫だから休んでもいられないし。孫たちに小遣いをあげるためには稼がないと」
実は、地下鉄宅配は年齢のほかにも条件がある。地下鉄の駅の階段を何度も上り下りできる健康な体と、スマートフォンの地図アプリで配達先を探せる最低限のITリテラシーがなければならない。簡単なようだが、これができない高齢者はけっこう多い。
古紙収集の高齢者が4万人超
働きたくてもどこにも採用されず、行き詰まった高齢者が最も簡単にできる仕事は「古紙収集」だ。
キム· ヒョンギュ(82)は小学校を卒業した後、14歳でソウルに出て大工の仕事を学んだ。腕がよく、70年代に韓国企業が中東のインフラ建設事業に乗り出した「中東建設ブーム」当時、大手企業の試験に合格してカタールに派遣された。7年間懸命に働いたが、カタールの現場で事故に遭い、補償金ももらえず追い出される形で退職した。
弱り目にたたり目で、肺癌にかかった妻を3年間介護し、中東でためた金を全て医療費につぎ込んだ。妻は病気に勝てず亡くなり、貯金を全て失ったキムは小さな建設現場を転々として生計を立てていたが、14年に自分も大腸癌にかかり仕事を中断してしまった。
古紙収集を10年以上続けるキム(今年3月) KIM KYUNG-CHUL現在キムの1カ月の収入は、政府から支給される最低生計費給付と基礎年金、障害者年金を合わせて100万ウォン余り。そこから家賃の約20万ウォンと薬代40万ウォンを引いて、残りの40万ウォンで1カ月生活しなければならない。「食事代を稼ぎたい」と始めた古紙収集はもう10年以上続けている。
キムは朝6時に家を出て、重さ60キロもあるリヤカーを引いて一日中歩き回り、段ボールや古紙を拾う。古紙の価格は1キロ当たり70ウォン、1日で60~100キロ程度の古紙を集めても、キムの稼ぎは4000~7000ウォン程度にすぎない。サラリーマンの昼食代が平均1万ウォンを超える物価高のソウルだから、キムの稼ぎはランチ1回分にもならない。
韓国の保健福祉省は今年1月、古紙を収集する高齢者の実態調査を初めて発表した。これによると全国で約4万2000人の高齢者が古紙収集を行っている。平均年齢は76歳で、1日の平均労働時間は5.4時間、1週間に6日働いている。1カ月の収入は平均で15万9000ウォン。時給に換算すれば約1200ウォンだ。
OECDの最新統計によると、韓国の高齢者の相対貧困率(66歳以上)は40.4%で、OECD加盟国の平均14.2%の3倍近い。豊かな国であるはずの韓国の高齢者が深刻な貧困に陥っている原因について、嘉泉大学のユ・ジェオン教授(社会福祉学)は次のように説明する。
「国民年金制度の導入が遅れたのが最大の原因だ。韓国は国民年金制度を88年に導入したが、全国民に拡大されたのは99年以降。現在75歳以上の後期高齢者の中には国民年金に加入しなかった人が多く、加入したとしても最少加入期間の10年を満たしていない人がほとんどだ。だから、70代の毎月の平均受給額は50万ウォン半ば、80代は40万ウォンにも至らず、生計を維持するのは非常に難しい」
高齢者は地下鉄の無料乗車を宅配に利用する(今年3月) KIM KYUNG-CHUL年金改革には若年層が反発
さらにユ教授は「高齢者の扶養に対する社会的認識の変化も影響を及ぼしている」と言う。「これからは高齢者の面倒を見るのは子供の役割ではなく、高齢者自身と国の責任だという考え方が広がるなか、核家族化が進み、家族構造が変化し、子供たちと同居しない高齢者世帯が急増している。1人暮らしや夫婦だけで暮らしている高齢者は世帯所得が少なく、貧困に追い込まれている」
再就職が困難な硬直した労働市場も原因として挙げられるという。韓国の法律上の定年は60歳だが、現実の退職年齢は50代前半だ。最初の職場を退職すると、ほとんどはまともな再就職ができず、臨時雇いを転々とすることになる。賃金水準も大幅に落ち、貧困から脱出しにくい構造になっている。
一方、高麗大学のキム· ウォンソプ教授(社会学)は、韓国の高齢者の突出した貧困率の背景として政府の責任を指摘する。
「韓国の高齢者の割合はOECD加盟国平均の2倍程度だが、公的年金支出はGDPの3.4%でOECD平均の8%の半分にも満たない。公的年金支出の規模を少なくともOECD平均まで引き上げる必要がある。このままだと、2050~60年になっても韓国の高齢者貧困率は30%を超え、状況は改善しない」
さらにキム教授は「より深刻なのは、韓国では高齢化が世界で最も速いペースで進んでいることだ」と言う。「現在は全体の約20%である高齢者の人口比率が、50年には40%を超え、60年には55%まで増えると予測される。高齢者の貧困は韓国の社会全体を貧しくする。そうなる前に政府の積極的な介入が必要だ」
具体的に必要なのは、年金制度の不備を補完するために設けられた基礎年金の拡大だ。「現行の65歳以上の所得下位70%に最高30万ウォンまで支給される基礎年金を、100%を対象に最大50万ウォンまで支給しても、韓国の公的年金支出は2040年のGDPの10%に及ばない。2040年のOECD平均は10%ほどと推定されるので、それでやっと平均値に到達する」
尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は現在、国民年金の改革案をまとめる議論を始めている。現行の「保険料率9%、所得代替率40%」(保険料率は現役世代の収入から徴収する年金保険料の比率。所得代替率は、年金受給額を現役世代の収入と比較した比率)をそれぞれ13%と50%に引き上げる第1案と、10年以内に保険料率を12%に引き上げ、所得代替率は今の40%を維持する第2案を作り、専門家や国民の意見を聴取している。
だが両案とも、当面の負担が増えることに対する若年層の反発が激しい。若年層は、むしろ所得代替率を下げる方向での年金改革を主張している。急激な高齢化や少子化、低成長の中で、迫りくる超高齢社会への恐怖にとらわれる若い世代は、国民年金の今後に不安を抱いている。
高齢者の福祉予算をめぐっても議論がある。今年2月、総選挙を控えて「改革新党」を結成した李俊錫(イ・ジョンソク)代表は、現行の「65歳以上の地下鉄無料乗車制度を廃止」し、代わりに「月1万ウォンの交通バウチャーを支給する」という公約を掲げた。
これまで一部が主張してきた「高齢者の地下鉄無料乗車の廃止」を公の議論の場に持ち出した形だが、これに約半数の国民が賛成した。民間調査機関が2月に実施した世論調査では、全世代の回答者では賛成47%、反対48%と意見が分かれたが、20代と30代では賛成が50%を超えた。
限られた予算をめぐるシーソーゲームの中で先鋭化する高齢層と青年層の対立は、韓国を「敬老社会」とは正反対の「嫌老社会」へと追い込んでいる。
(筆者はソウル生まれ。東京新聞ソウル支局記者を経て、現在フリージャーナリスト)
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