山谷のドヤ街(2010年撮影) Kounosu-Creative Commons

<日本三大ドヤ街として知られる、東京の山谷。しかし、闘う労働者の姿はもうなく、街の姿は変容を遂げている。山谷で地域医療に従事するライターがその歴史をたどり、そこに生きる人たちの姿を描写した>

『山谷をめぐる旅』(織田忍・著、新評論)の著者は、短大卒業後に編集プロダクションや出版社勤務などを経てフリーランスのライターになったという人物。

しかし生活の維持が困難だったこともあり、35歳で看護学校に入学。卒業後は看護師として働くことになった。現在は訪問看護師として、山谷エリアを中心とした地域医療に従事しているそうだが、そんななかで「山谷」について「いつか書いてみたい」と思うようになったそうだ。

山谷と言えば、東京の台東区と荒川区にまたがる日雇い労働者の街である。大阪の釜ヶ崎、横浜の寿町と並ぶ、日本三大ドヤ街の1つだ。


 初めて山谷を訪れたのは、今から一五年ほど前になる。寄せ場に関する知識はほとんどなく、大阪の釜ヶ崎にあるNPO法人「こどもの里」でボランティアをしていた友人から少し話を聞いたという程度のものだった。
 その後、取材を通して何度も山谷に足を運ぶようになり、思いがけない出会いに助けられ、写真集『三谷への回廊 写真家・南條直子の記憶1979-1988』を編集・執筆し、自費出版するに至っている。この一冊は、南條直子の視座を大切にしてまとめた作品なのだが、いつからか、今度は自分の目で見た「山谷の記録」を残したいと思うようになった。(「プロローグ」より)

写真集の刊行後は山谷を歩くことがライフワークとなり、やがて彼の地の「訪問介護ステーション コスモス」で働き始める。山谷にどっぷり浸かり、さまざまな方向へと人脈を広げていくことになった。


 山谷はカオスな場所だった。地べたに座り込んで酒を酌み交わす。呑んだくれて道端に倒れる、立ちション、ゴミの投げ捨て、「モラル」という言葉を説明するのがばかばかしくなるようなところである。さらに、この街で暮らす人たちには地方からの流れ者が多く、家族から逃れてきたような人も珍しくない。こういう世界にいると、どこかほっとするような気持ちがした。(「プロローグ」より)

完璧主義で、自分が精神的に追い詰められたときも救いの手を求めることができなかった著者でさえ、「とりあえず生きてるし、まあ、いっか」と思えるような何かが山谷にはあったのだという。すなわちそれが、本書を執筆する動機だったわけだ。

周りからは冷たい目、現場では重労働、田舎では立場がない

だがそんななか、今はもう昔ながらの山谷はないという現実に直面する。かつて多かった日雇い労働者とは違い、暮らしているのは仕事がなくなり、生活が成り立たなくなっている人たちばかり。「闘う労働者」はもういない閑散とした街になっているからこそ、"山谷を切り取る意味"も希薄になっているということである。


とはいえ、この土地のもつ宿命のようなものは決して消えたわけではなく、粛々と日々が続いており、人は生きている。闘争の時代から半世紀を経て、看護師として山谷で働くようになった私は、この街で会った人々、見聞きした出来事を遺したいと強く思うようになった。(「プロローグ」より)

かくして著者は、江戸時代以前にまで時計を戻し、そこからバブル崩壊に至るまでの山谷の歴史を克明にたどる。

また、1985年に発表されたドキュメンタリー映画『山谷(やま)――やられたらやりかえせ』が誕生した背景と経緯をなぞり、前述した報道カメラマンの南條直子の短い人生を克明に追うなど、日が当たることのないこの街、そして、そこに生きる人たちの姿を描写する。

そこに映し出されるのはまさしく"流れ者"のリアルであり、だからこそ(私には同じような暮らしは自分はできないだろうなという思いが前提にあるけれど)「なるほどなあ」と思わせるものがある。


「ヤマから来た労働者ってのは、なぜだかその雰囲気で分かる。こう、背中を丸めてるような感じで、本人自身が使い捨てにされている、差別されているという思いがあり、その人をぎこちなくさせていたのかもしれない。この街には、いろいろな過去や重荷、言えない悩みを抱えた人がいて、周りからは冷たい目、現場では重労働、田舎では立場がないという人がやって来る。ただ、『自分は労働者だ』っていう誇りがあり、『働く仲間の会』っていうのをつくった。でもね、結局は呑んべえの会になっちゃったけど」(144ページより)

こう語るのは、第二次オイルショックの時代(1978年)から山谷に入ったという「玉三郎」。熊本の浄土真宗の寺院に生まれたものの寺を継がず、熊本、大分、沖縄、大阪と放浪し、28歳で上京したという人物だ。その道筋を見ても、行き場を失った彼を山谷が受け入れてくれたことを理解できる。

「山谷らしさ」が地域社会で求められているものなのか

なお、労働者の活気が満ちていたそんな時期の描写もさることながら、さらに印象的だったのは"現在"の山谷の姿だ。もう活気を失っているとはいえ、そこで生きていくことを決めた人、そういった人たちを支える人のあり方には納得させられるのである。

特に印象的なのは、「"命"と"暮らし"を自分たちで守る共同事業」を行っている「企業組合あうん」の共同創業者である中村光男さんのことばだ。1980年代の闘いも含めて見つめていくと、"山谷のやり方、山谷らしさ"が見えてきて、それが今、「地域社会の中で求められているものなのでは」と感じているというのだ。


「いろんな人が、『あうん』を見学しに来るじゃない。そこでよく言われるのが、『人のつながりがあまりに濃い』ということ。何でそうなるのか、どうやってつくったのか聞かれるの。それはさ、食えなきゃ一緒に食えるようにしようとか、仕事がなければ一緒に働きに行こうとか。そういうのってもともと山谷は当たり前だったし、それを大切にしてきたからなんだよね。でも、地域社会にはそれがない。目に見えない差別や分断が根を張っている。みんなバラバラで、そのなかでどうつながっていけるかが一番の問題。一旦、バラバラになったものをつなぎ直していくわけだから、生半可ではできないよね」(205ページより)

しかも、高齢化はどんどん進んでいる。東京都対策本部が作成した「東京都山谷対策総合事業計画」(令和5年度〜令和7年度)によれば、1万5000人ほどいたドヤ(簡易宿泊所)の住人は、2021(令和3)年度の時点では3000人ほどまでに減少しており、ドヤは128軒(従来型115軒、ビジネス・観光向け13軒)となっているという。

日雇い労働者の割合は2.6パーセント、住民の9割が生活保護受給者で、平均年齢は67.5歳だが、70歳以上が5割を超え、高齢化率は7割近くにまで及んでいるのだそうだ。

ドヤがなくなれば、もう「山谷」ではなくなるが


現状のドヤは本来の旅館業ではなく、生活保護受給者の受け皿として経営が成り立っている。それが一〇年、二〇年、確実な方向性としてあり続けられるかといえば、おそらく難しい。物件が老朽化すれば改修してまで続けたいと思うところはかぎられるだろうし、すでに跡継ぎがいなくて廃業するところもある。最近では、ドヤの跡地にマンションが建つことも増えている。歴史のなかに「山谷」は存在し続けるだろうけれど、ドヤがなくなれば、もう「山谷」ではなくなる。こういう大きな流れがある一方で、「山谷」へのノスタルジーを未練がましく引きずって「山谷っぽさ」を何とか残そうとしている支援者がいる。正直なところ、そんな構図なのかな。(259〜260ページより)

1984年以来、ホームレス状態にある人や生活に困窮している人への支援を続けている「山友会」副代表の油井和徳さんは本書でこう述べている。続きはこうだ。


山谷がなくなっても、ここで生きてきたような人を支えていくことが必要なときに、山谷が培ってきた「文化」みたいなものが生かされるのであれば、それが街を残す形の一つになるかもしれない(259〜260ページより)

確かにその通りなのかもしれないが、実のところ今後、この街はどうなっていくのだろうか。


『山谷をめぐる旅』
 織田 忍 著
 新評論

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[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。他に、ライフハッカー[日本版]、東洋経済オンライン、サライ.jpなどで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。最新刊は『現代人のための 読書入門』(光文社新書)。

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