アレッポは時の権力者が絶対に掌握したい戦略拠点だった(2015年、反体制派の拠点への爆撃) MAMUN ABU OMERーANADOLU/GETTY IMAGES
<外敵を阻止する自然の大きな「壁」がないシリアは、世界との貿易に開けていると同時に、軍事侵攻のルートにもなりやすい地形>
10年以上続いたシリア内戦が、バシャル・アサド大統領の出国により終わりを迎えた。今後は、反体制派のシャーム解放機構(HTS)を中心に、安定らしきものが戻ってくるだろう──。
そんなふうに考えるのは、残念ながら間違いだ。なにしろシリアには、戻るべき安定した時代など、ほとんどなかったのだから。
シリア内戦は、宗教やイデオロギーと同じくらい、その地理によって激化してきた。今回の戦争の終わりは、次の戦争の始まりを意味する可能性も十分ある。
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シリアには、国内にも国境沿いにも大きな自然の「壁」がない。北西部は地中海に面しており、世界との貿易に開けていると同時に、軍事侵攻のルートにもなりやすい。
東にはユーフラテス川が流れ、中央から南辺には砂漠が広がり、北辺はトロス山脈の南麓の平原が広がる。つまり、シリアの地理には外敵を阻止する壁もなければ、国内で最終防衛線となる壁もない。
現代のシリア国境の大部分は人為的に引かれたものだ。このため国境は脆弱で、権力は独立性が低く、国家としてのアイデンティティーも乏しい。
一方、国内は地形によって6つのエリアに分かれている。南西部のオアシスと、北部の地域貿易の重要拠点、西の地中海沿岸部、南の険しい高原、南北に走る回廊、そして平らで不毛な東部だ。
シリアの戦いの歴史
南西部のオアシスは、レバノンとの国境を成す山岳地帯と、東側の砂漠との間に挟まれている。首都ダマスカスはこのオアシスの中央に位置する。しかし、全国各地と有機的に結ぶルートが整備されておらず、歴代政権は力によって脆弱国家の内部崩壊を防ごうとしてきた。
北部の商都アレッポは、小アジアとメソポタミアを結ぶ交易の要衝だ。いつの時代も、小アジアを支配する者(東ローマ帝国、オスマン帝国、そして現在のトルコ)は、多くの人でにぎわうアレッポを物欲しげに見てきた。
シリアの政治の中心であるダマスカスにとっても、アレッポは重要なライバルであり、常に支配下に置いておきたい街だった。
外国軍の支援は海から
西部の地中海沿いには小高い山が連なっており、歴史的にアラウィ派(イスラム教シーア派の分派)やキリスト教徒といった宗教的マイノリティーが暮らしてきた(シリアの多数派はイスラム教スンニ派)。
このエリアに位置する都市ラタキアとタルトゥースは世界への玄関口だ。歴史的に、遠方の外国(最初はフランス、現在はロシア)との同盟は、この地域を通じて築かれ、ダマスカスの権力者を支えた。
この地中海沿岸部とアレッポの間には、オロンテス川と平行に南北に走る回廊があり、ダマスカス周辺のオアシスと、アレッポ商業圏を結んでいる。この回廊に位置する代表的な都市が、ホムスとハマだ。
ハフェズ・アサド(右)、1967年 KEYSTONE-FRANCEーGAMMA-KEYSTONE/GETTY IMAGESダマスカスの権力者にとって、アレッポの支配はこの回廊を通じて可能になる。逆に、ダマスカスに対する反乱は、この回廊の攻略を伴う。つまりダマスカスとアレッポを結ぶルートは、支配の回廊であると同時に、反乱の回廊でもあるのだ。オロンテス川が別名「反乱の川」として知られるのは偶然ではない。
シリア東部にはユーフラテス川と、不毛の平原が広がる。これはイラク北部からトルコ東南部に至るジャジーラ地方と呼ばれる地域の一部で、モスル(イラク北部)、ディヤルバクル(トルコ東南部)、そしてラッカ(シリア北部)といった大きな都市を擁する。
とりわけモスルとラッカは密接に関連していて、ダマスカスの支配者ではなく、モスルの支配者がラッカを統治することが多かった。その逆もまたしかりだ。
一方、南西部のエッドゥルーズ山地と、ヨルダン国境に近いハウラン台地は、ドルーズ派(シーア派の分派)など、宗教的マイノリティーの一大拠点となっている。しかし彼らが、地中海沿岸部の宗教的マイノリティーと結束したことはない。
このように、シリア国内は地理的に分断されてきた。首都ダマスカスは、国内各地へのアクセスが限られている。商都アレッポは、歴史的にローマ帝国やトルコの影響下にあった。首都と商都をつなぐ回廊は、戦闘の舞台になりがちだった。
細長い地中海沿岸部とエッドゥルーズ山地は、マイノリティーが住む。そして現代シリアが建国されるまで、首都ダマスカスがアレッポとラッカを支配下に置いたことはなかった。
汎アラブ主義のくびき
民族も言語も宗教も多様なシリアでは、軍事行動も貿易も宗教的交流も、分裂と不安定化を促してきた。数千年の歴史を持つ土地で、異質な人々の間の緊張が続いてきたため、中央に独立した統一政権を樹立することは、著しく困難だった。
だからシリアは、たびたび大帝国(アッシリア、アケメネス朝ペルシャ、アラブ人、オスマン帝国など)の完全な支配下に置かれた。2つの大国(ローマ帝国とパルティア、ビザンチン帝国とササン朝ペルシャ、イルハン朝とマムルーク朝)が覇権を争う地域だった時期もある。
第2次大戦後にフランスの植民地から独立してからも、シリアは国家としての強力なアイデンティティーがないことや、脆弱な政府など多くの難題に直面した。
とりわけ、1948年の第1次中東戦争で敗北したことは、独立まもないシリアを不安定にさせ、汎アラブ主義の広がりを許した。そしてエジプトのガマル・アブデル・ナセル大統領の呼びかけに応じ、エジプトと共にアラブ連合共和国(UAR)を樹立、のちに北イエメンも合流した。
やがてUARが崩壊し、67年の第3次中東戦争で壊滅的な敗北を喫してからも、シリアで汎アラブ主義が弱まることはなかった。
70年にハフェズ・アサド(バシャル・アサドの父親)がクーデターで全権を掌握し、バース党の支配が始まると、ようやく政治的安定らしきものが生まれたが、それは強権政治によって実現したにすぎなかった。
それを揺るがしたのは、アラブ諸国の民主化の波「アラブの春」だった。2011年に始まったシリア内戦は、外国から来たイスラム原理主義勢力と、政府軍の残虐行為により悪化の一途をたどり、大量の避難民とインフラ崩壊をもたらした。
だが、ここでも地理が重要な役割を果たすことになる。ラッカを掌握した過激派組織「イスラム国」(IS)は、モスルも支配下に置いた。アサド政権は、地中海沿岸の支配を維持することでロシアの軍事支援を確保した。トルコが支援する反体制派はアレッポを支配下に置いた。
戦闘の大部分は、ダマスカスからホムスとハマを経由してアレッポにつながる回廊に集中した。そしてロシアとイランの支援を得たアサドがこの回廊を制圧した時点で、内戦の第1段階は終わった。この回廊を支配した者が、シリアを支配するという地理の論理のとおりだ。
今回のアサドの失脚も、反体制派がこの回廊を攻略したとき避けられなくなった。ダマスカスを陥落させた今、彼らはシリアの運命を握ったと考えているかもしれない。だが、彼らもすぐに学ぶことになるだろう。シリアの地理を支配することは決してできないのだ、と。
From Foreign Policy Magazine
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