12月13日、 シリアのアサド前大統領は自身の国外脱出計画をほぼ誰にも打ち明けず、側近や政府高官、さらには親族たちでさえも騙されるか蚊帳の外に置かれていた。写真は10日、ダマスカスのアサド氏の大統領官邸内部に残されていた同氏のポートレート(2024年 ロイター/Amr Abdallah Dalsh)
シリアのアサド前大統領は自身の国外脱出計画をほぼ誰にも打ち明けず、側近や政府高官、さらには親族たちでさえも騙されるか蚊帳の外に置かれていた。アサド政権崩壊の経緯を知る14人の関係者がロイターに明かした。
ロシア首都モスクワに逃げ出す直前の7日、アサド氏は国防省で軍や治安部門の幹部約30人と会議を開き、ロシアの援軍がくるとのうそを伝えて地上軍に戦線を保持するよう促したと、この会議に出席したという司令官の一人が明かした。
文官らも同様に実情を知らされなかった。
アサド氏は7日に執務を終えた際、大統領府の管理責任者に自宅へ帰ると述べたが、実際には空港へ急いでいたと、アサド氏の側近の一人が証言した。
またアサド氏はメディア担当顧問の女性には同氏の自宅に来て演説原稿を書くよう指示。ところが彼女が到着すると、そこはもぬけの殻だった。
シンクタンク、アラブ改革イニシアチブのエグゼクティブディレクター、ナディム・ホウリ氏は「アサド氏は最後の踏ん張りさえ見せず、軍部隊を鼓舞することすらしなかった。自身の支持者たちが過酷な運命に直面するのを放っておいた」と批判した。
ロイターが取材したこれらの関係者を通じて見えてきたのは、24年続いた政権の延命を外国勢力に頼るしかなく、最後は周囲の人々に嘘をついたり、沈黙を保って国外脱出を図らざるを得なかった指導者の姿だ。
アサド氏は、実弟で精鋭の陸軍第4装甲師団司令官だったマヘル氏にさえ脱出計画を明かしていなかったと、補佐官3人が証言した。マヘル氏は独自にヘリコプターでイラクに飛び、その後ロシアに入ったと、このうち1人が明かした。
母方のいとこ2人も、旧反体制派が突入したダマスカスに取り残されたと、シリア補佐官とレバノンの治安機関関係者は話す。2人は自動車でレバノンに逃れようとしたものの、途中で待ち伏せ攻撃を受けて1人が死亡、もう1人も負傷したいう。ロイターはこれらの出来事に関しては確認できていない。
2人の外交官によると、アサド氏本人は8日に識別信号装置の作動を停止した状態の航空機でダマスカスを去った。同氏は沿岸都市ラタキア近郊にあるロシア軍基地にいったん降り立ち、そこからモスクワに向かった。妻と3人の子どもはモスクワに先着していて、アサド氏を待っていたと、元側近3人と地域の高官1人が明かした。
旧反体制派や市民が撮影してSNSに動画投稿した大統領官邸の状況を見ると、アサド氏が大慌てで脱出した様子がうかがえ、ストーブには調理された料理が残され、家族の写真アルバムなど幾つかの私物が放置されていた。
軍事介入得られず
アサド氏は脱出の直前まで、ロシアやそのほかの国に対して政権延命に向けた支援獲得を模索したものの、特に内戦の戦局挽回につながった2015年当時のようなロシアによる軍事介入は当てにできないことがはっきりとした。
例えばシリアで旧反体制派が北部の大都市アレッポに攻撃を仕掛け、電撃的な進軍を開始した翌日の11月28日にモスクワを訪れたアサド氏は、ロシアに軍事介入を求めたが全く聞き入れてもらえなかったと、外交官3人が述べた。
シリア旧反体制派統一組織「シリア国民連合」のハディ・バフラ議長は情報筋の話として、アサド氏は帰国後この厳しい現実を明らかにしなかったと暴露。「彼は軍司令官などにロシアの援軍がやってくると嘘をついていた。彼がロシアから受け取ったのは(援軍の)拒絶だった」と説明した。
アサド氏はモスクワ訪問後の今月2日、イランのアラグチ外相とダマスカスで会談。この時点までに「シャーム解放機構(HTS)」が主導する旧反体制派軍はアレッポを掌握し、アサド政権軍の後退とともに南部へ向けて急速に進撃していた。
あるイランの外交官はロイターに、アサド氏は目に見えるほど途方に暮れ、政権軍が効果的な反撃をするには弱過ぎると認めた、と明かした。
それでも2人のイラン政府高官の話では、アサド氏はイランに軍部隊派遣は要請せず、イランが動けばイスラエルにシリアにいるイラン軍、場合によってはイラン自体への攻撃の口実を与えてしまうという事情に理解を示したという。
UAEは受け入れ拒否
万策尽きたアサド氏は最終的に政権の終焉を受け入れ、国外脱出を決意し、父親の代から続いたアサド家のシリア支配に終止符が打たれた。
アサド氏周囲の人物3人によると、同氏は当初アラブ首長国連邦(UAE)に亡命を希望したが、旧反体制派に対する化学兵器使用疑惑などで欧米の制裁を受けている同氏の亡命を許せば国際的な反発を招くと懸念したUAEがこれを拒否したという。
しかしロシアのある外交関係者は、同国はアサド氏を見捨てるつもりはなかったと強調。ラブロフ外相は7日から8日にかけて、アサド氏の安全確保に向けた取り組みを陣頭指揮し、トルコとカタールに対してHTSに働きかけてアサド氏がロシアへ安全に待避できるよう段取りしてほしいと要請した。
西側の安全保障関係者の1人は、ラブロフ氏はアサド氏の安全な出国に向けて「できることは何でも」行ったと述べた。
トルコとカタールはHTSと接触したことを公式には認めていない。しかし3人の関係者は、両国がHTSを通じてアサド氏脱出の道筋を付けたと指摘する。
ロシアは、アサド氏が乗ったロシア機が戦闘機に迎撃されたり、ミサイルの標的になったりしないように周辺国との調整も図ったという。
アサド政権の首相だったモハメド・ジャラリ氏がアサド氏と電話を通じて最後に会話したのは7日午後10時半だった。「私は彼に情勢がいかに厳しいかを伝え、ホムスからラタキアまで多くの人が家を追われ、街頭はパニックと恐怖に満ちていると説明すると、彼は『明日会おう』と返事をしたので『では明日』と返事したのが最後に交わした言葉になった」と、サウジ系テレビ局の取材に語った。
翌8日の明け方、ジャラリ氏が再びアサド氏に電話したが、応答はなかったという。
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