12月3日深夜に戒厳令を宣言した尹大統領 THE PRESIDENTIAL OFFICEーHANDOUTーREUTERS

<深夜の戒厳令を食い止めたのは、独裁政治を経て勝ち取った韓国民主主義の底力>

まさか、まさかの一夜だった。確かに野党議員の金民錫(キム・ミンソク)はこの夏から、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が戒厳令を出しかねないと警告していた。しかし誰もが、さすがにそれはないと思っていたし、そう思いたかった。

【年表で振り返る】戒厳令とクーデター続きの韓国現代史

もちろん、あの頃から右派で少数与党の尹政権が強権的な傾向を強めていたのは事実。彼の支持率は10%台後半から20%台前半に低迷し、大統領夫妻の不正疑惑も深まるばかりだった。


それで尹はリベラル派の政治家やジャーナリストの事務所や自宅を片っ端から捜索させ、ろくな根拠もないのに野党指導者・李在明(イ・ジェミョン)を刑事告発した。過去の遺物のような軍事パレードもやってみせた。

それでも尹が戒厳令を敷いて自作自演のクーデターをやり、民主的に選ばれた現職大統領が独裁者に変身するなどという金民錫の主張はあまりにも荒唐無稽と思われていた。

金は1987年に全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事独裁政権を終わらせた民主化運動の元リーダーだが、それにしても党派色むき出しの発言だと、みんな眉をひそめていた。87年の民主化以降に韓国で戒厳令が敷かれたことは一度もない。

ただし、北朝鮮との軍事衝突で戦時の非常事態となれば戒厳令を出せるという法律は残っていた。

議事堂への突入を試みる兵士たちを抗議の市民が押し返した CHUNG SUNG-JUN/GETTY IMAGES

その戒厳令が急に現実となった。12月3日の午後10時23分、尹は予告なしの記者会見を開いた。6分間にわたって声明を読み上げ、「非常戒厳」を宣布すると表明した。

理由はリベラル派の野党「共に民主党」が政権幹部に対して22件もの弾劾訴追案を発議し、来年度予算を大幅に削減すると脅し、国会を「自由民主主義体制を破壊する怪物」に変えたというものだった。


尹は政敵を「親北朝鮮の反国家勢力」と決め付けた。それは韓国の過去の独裁者たちが自らを正当化するために使ったのと同じ表現だった。

1時間後には朴安洙(パク・アンス)陸軍参謀総長が戒厳司令官に任命されていた。戒厳司令部は国会と地方議会に一切の政治活動を禁じ、全ての言論と出版を統制し、市民の集会を禁じると命じた。首都ソウル市内には装甲車やヘリコプターが出現した。

過去の悪夢がよみがえった

戒厳宣布を伝える国内のニュースキャスターたちは、見るからに身を震わせていた。多くの国民同様、戒厳令下の日々を体験し、知っていたからだ。

韓国で最後に戒厳令が敷かれたのは1979年10月、独裁者・朴正煕(パク・チョンヒ)が殺害されたときだ。その後に全斗煥が権力を掌握したが、戒厳令は1981年1月まで維持された。その間に南西部の光州で戒厳軍の空挺部隊が少なくとも数百、あるいは数千人のデモ隊を虐殺した。

12月5日、国会前には野党議員と支持者が集まり大統領の辞任を求めた CHUNG SUNG-JUN/GETTY IMAGES

この光州事件は現代韓国史の節目となった。当時のことは今年のノーベル文学賞を受賞した韓江(ハン・ガン)が小説『少年が来る』で詳しく描いている。

しかし2024年の今、国民の大半はあの虐殺も歴史上の出来事、悲劇だけれど昔の話と信じていた。だからみんな、装甲車やヘリコプターが国会を包囲する様子を見て愕然とした。その国会には、多数決で戒厳令を解除する権限があった。


幸い、歴史は繰り返さなかった。理由の1つは、毎度のことながら尹の行動が道化師さながらに拙速かつ無能だったことにある。普通、クーデターで権力奪取を狙うような人間は綿密な台本を用意しておくものだ。テレビを乗っ取り、ネット接続を妨害し、野党指導者を逮捕し、検問所を設ける──。

今回も、そうした計画はあったはずだ。少なくともメディアの統制は目指していた。しかし、当てが外れた。12月3日の深夜にもテレビの取材班は国会議事堂周辺で自由に取材していた。

リベラル派の指導者たちはSNSで大統領への抗議を呼びかけた。主要な野党指導者を逮捕せよという命令は出たらしいが、のろのろしていて逃げられた。

兵士たちは武力行使に及び腰で、非武装のデモ隊に押し戻されるままだった(本稿は戒厳宣布の約24時間後に書いているので、その後にも起きたであろう「まさか」の事態についてはご容赦いただきたい)。

ともかく尹の行動はお粗末すぎた。秘密裏に事を進めつつもキーパーソンは抱き込んでおくというバランス感覚に欠けていた。戒厳宣布を進言したのは金龍顕(キム・ヨンヒョン)国防相とされるが、金の命令に従った軍人はごくわずか。

兵士や警官の大半は動かなかった。与党「国民の力」の重鎮も何も知らされていなかったようで、代表の韓東勲(ハン・ドンフン)はすぐにクーデター非難の声明を出している。


とはいえ、一歩間違えば大混乱と血の海になりかねない場面も多々あった。法律上、国会は多数決で戒厳令を解除することができるが、そのためには議員が集まって投票できる環境が必要だった。

しかし超法規的な戒厳令の発動によって国会は閉鎖され、武装した兵士が議事堂の外をパトロールし、機関銃を備えたヘリコプターが上空を旋回していた。

それでも韓国の議員たちはやり遂げた。議事堂周辺に集まった市民は配備された特殊部隊ともみ合い、兵士や装甲車を止め、議員たちが建物に入る道を開いた。

共に民主党の女性政治家・安貴朎(アン・グィリョン)は、武装した兵士を素手で押しのけて議事堂に入った。党首の李在明は59歳にしては驚くべき運動能力を見せ、兵士たちを避けるために議事堂の壁を乗り越えた。幸いにして、誰も彼に発砲しなかった。

建物に入った議員とスタッフたちは入り口にバリケードを築き、午前0時49分に開会が宣言された。議長の禹元植(ウ・ウォンシク)は、全ての法的な手続きを踏み、投票結果に疑問の余地が残らないようにしようと強調した。

その間にも空挺部隊が窓ガラスを割って侵入を試みたが、議会スタッフが消火器や携帯電話のフラッシュで応戦し、どうにか押しとどめた。


国会の手続きにのっとって法案をタイプし、提出するのに12分かかった。しかし午前1時1分、300人の国会議員のうち、なんとか議場に入ることのできた190人が全員一致で戒厳令の解除を決議した。

なかには与党・国民の力に属する議員18人も含まれていた。しばらくためらった後、ヘリコプターと装甲車、そして兵士たちは議事堂を離れ始めた。

しかし、尹大統領が国会決議に従う保証はなかった。だから議員たちは議場にとどまり、尹が再び軍を出動させたり、新たな戒厳令を発したりする事態に備えた。

敗北を認め、屈辱にまみれた尹が記者会見に臨み、戒厳令解除を発表したのは午前4時27分だった。

保守勢力には「恥の上塗り」

現時点では、状況はまだ流動的だ。しかし尹大統領が27年までの任期を務め上げる可能性は低い。野党は尹の即刻辞任を求めたが、応じないとみて弾劾の手続きに入った。

弾劾には議会(定員300)の3分の2以上の賛成が必要だ。尹の与党は108人の議員を擁し、3分の1をわずかに上回っている。建前上、与党が大統領を支持するのは間違いない。しかし18人の議員が既に戒厳令解除に賛成票を投じている。弾劾決議でも8人以上の造反者が出る可能性は高い。

尹が不名誉な弾劾より辞任を選んでも、たぶん起訴は免れない。韓国には過去3代の大統領のうち、保守系の李明博(イ・ミョンバク)と朴槿恵(パク・クネ)を起訴し、投獄した輝かしい歴史がある。


この先がどう転ぼうと、これだけは言える。韓国の民主主義はそう簡単に負けない。40数年ぶりの戒厳令はたった6時間で、議会の投票によって解除された。一発の銃弾、一滴の血も流れなかった。一発の銃弾でも放たれていたら流れは変わっていただろう。

しかし抗議の民衆は民主主義の規範に従っていたし、軍隊に包囲された議員たちも粛々と投票した。これが民主主義。兵士たちも、その重さを感じていた。

韓国の保守勢力にとっては恥の上塗りとなった。自分たちの担いだ朴大統領を弾劾裁判で失ったのが2017年。家賃の高騰に対する国民の不満を追い風に、奇跡的に大統領府を奪還したのが2022年。そこへ今度の、自作自演のクーデター未遂。

この国の保守勢力はしょせん軍政時代の独裁者の末裔で、何かあればすぐに隠していた専制の牙をむく。そう言われても抗弁できまい。

悲しいかな、保守派の中でもそれなりに分別のある議員たちはまたしても、自分たちの担いだ大統領を弾劾するしかないのだ。

From Foreign Policy Magazine

戒厳令とクーデター続きの韓国現代史

北朝鮮との緊張関係が続く韓国では、建国直後から独裁者たちが立て続けに戒厳令を発令。共産主義の取り締まりを名目に、反対派の市民や学生を弾圧した。


1948年 韓国政府樹立からわずか2カ月後、初代大統領の李承晩が共産主義者鎮圧のため初めて戒厳令を布告。弾圧で数千人の死者が。

1950年 朝鮮戦争中の1950年から1952年まで李承晩が断続的に戒厳令を敷いた。

1960年 反政府デモの高まりに李承晩が再び戒厳令を発令。デモ参加者と警察との衝突で数百人が死亡し、李は辞任を余儀なくされた。

1961年 軍事クーデターで陸軍少将だった朴正煕が政権を掌握。戒厳令発令。63年に大統領に就任した。

1972年 朴正煕が新たなクーデターを実行し、戒厳令を発令。ソウルの街頭に戦車を配備した。72年末に戒厳令は解除されたが、朴はその後何百人もの政敵や民主活動家を投獄した。

1979年 独裁者の朴が暗殺された後、済州島を除く全土に戒厳令を布告。陸軍少将の全斗煥がクーデターで政権を掌握し、後に大統領に就任した。戒厳令は81年に解除されたが、全による軍事独裁体制が87年の民主化まで続いた。

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