「関経連(関西経済連合会)をオール関西の力を結集する場として、もう一度再構築することが私の使命だ」。10日に98歳で亡くなった第11代関経連会長(1997~99年)の新宮康男氏は、失われた関経連の求心力を取り戻すことに腐心した。
前任の第10代会長は川上哲郎氏(住友電気工業会長)。第9代会長の宇野収氏が「規制を受けない立場」を重視して、本命視されていた小林庄一郎氏(関西電力会長)を後継にせず、そのしこりで有力企業が一斉に関経連の活動から距離を置いた。副会長には各社の副会長、副社長クラスが就く「軽量内閣」で、行き詰まった川上氏から新宮氏がバトンを託された。
後継として打診された際は「小林さんがなるのが筋」と譲らなかったが、「オール関西の発展を考え、行動を起こす」と引き受けた。ただ、受諾の条件に「(関経連副会長は企業の会長か社長が就く)原則は絶対曲げない」ことを挙げ「関西財界の総意」を迫った。
「オール関西」へのこだわりは関西の広域連携を目指し、近畿とその周辺の府県、政令市、経済団体の代表でつくる常設協議機関の設立に昇華した。「本格的な地方分権の時代に備えて地域が統治能力を高めるための取り組みだ」と熱っぽく訴えた。その努力は99年、関西広域連携協議会として結実。関西広域連合の源流となった。
自身は1期2年で関経連会長を退任し、秋山喜久氏(関電社長)に引き継いだ。就任時に住友金属工業(現・日本製鉄)会長だった新宮氏が「(同じ住友グループの)川上さんは3年で退くことになり、残りの期間を私がカバーするということ」と語っていた通りの引き際。最後まで筋目を通す人だった。
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