10歳でデビューして以来2024年に芸能生活60周年を迎えた、新潟市出身の歌手・小林幸子さんとともに、災害と支援について考えます。
2004年10月23日に発生した『中越地震』は、新潟県川口町(現 長岡市)で最大震度7を記録。68人が犠牲となり、住宅被害は12万棟に上りました。
小林さんは、地震のわずか5カ月後に長岡市の仮設住宅に足を運び、当時の山古志村の被災者と交流を深め、復興支援をおこなっています。
「♪ がんばって がんばって つよく生きるのよ 春はきっと来る ―(越後絶唱)」
軽トラックの荷台をステージにして歌で励ますばかりではなく、地震の2年後からは山古志地域で『小林幸子田』もはじめています。
この“コメ作り”は毎年継続され、時には田んぼの中でのライブも行われました。
山古志には、復興の応援歌ともなっている小林幸子さんの名曲『越後絶唱』の歌詞が刻まれた石碑があります。
当時、小林さんは「自分のできることは歌うこと。皆さんに元気になってもらうために、これからもずっと新潟を応援し続けていきたい」と話しています。
さらに、地震からの20年を振り返った小林さんは、
「避難所に行ったとき、みんなが『さっちゃん、さっちゃん。私たち早くコメ造りたいんだ、帰りたいんだ』って。それを見て、何があっても、この人たちを励ましていかなければいけない。一生懸命寄り添って歌うしかない…」と改めて語っています。
新潟市中央区出身の小林幸子さんは、デビューした1964年に発生した新潟地震で、実家も被害に遭っています。
「1階全部水浸し。ボロボロに壊れました。私はたまたまデビューで東京に居ましたが、今みたいに情報もなく、どうしたらよいかわからない…、生きてるか死んでるかもわからない。戻った時、たまたま給水車の前でお姉ちゃんに出合って、その場で泣きました」
中越地震以降も、さまざまな災害が発生し、そのたびに大きな被害が出ています。
「先輩の皆さんのいろいろな知恵を絶対聞いた方が良い。東日本大震災で新潟の皆さんと一緒に東北に行った際、こんなときどうしたらよいですかって皆さんに聞かれました。絆というか、持ちつ持たれつ、明日は我が身。だから一緒に共存していくことはとても必要…」
支援を続ける小林さんは、被災地でこんなことを感じているそうです。
「私が歌ってて、『さっちゃんに元気もらったよ、ありがとう』とよく言われますけど、それは違うんです。私も元気をもらっている。それがずっと循環している。だから私もありがとう、お互いありがとう、それで良いと思っています」
「デビューから60年間こうして歌ってこれたのは、故郷の皆さんの応援のおかげ」と話す小林幸子さんの、元気な姿や歌声が被災者の力になっていると感じました。
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