金沢の奥座敷「湯涌温泉」を愛した竹久夢二は、2024年で生誕140年の節目の年を迎えました。大正時代に「夢二式美人画」と言われる独特の画風や今も歌い継がれる名曲「宵待草」の作詞でも知られるマルチな才能。没後90年たっても色あせない、美人画だけではない魅力について取材しました。
竹久夢二は、明治17(1884)年、岡山県で造り酒屋を営む家に生まれました。最初は、詩で身を立てようと作品を発表しますが、日の目を見ることはなく、詩の形を絵で表現し投稿したところ高い評価を得て、雑誌や新聞の挿絵を制作する画家として芸術家の道を歩みだします。
夢二といえば、歴史の教科書にも代表されるような独特の美人画が最も有名です。特定の画家に師事することもなくそのデザインは独学です。
金沢湯涌夢二館 川瀬千尋学芸員
「強調された大きな目、S字形のような体の曲線、衣装の柄、大きな手と足、1枚の絵に物語性を詰め込んだ小物が夢二式美人画の特徴です。当時、画家に師事したり、美術学校に通って絵を学ぶのが一般的でしたが、夢二はそうではなく、街へ出て道行く人の一瞬の表情を見逃さずスケッチをしたり、古今東西の絵を見たり、古い布を収集したりして独特の絵を完成させました」
夢二の画集「現代ではアイドルの写真集のような存在」
独特の美意識に基づいた夢二の絵は、当時の若者を中心に大変な人気を集めました。
子供向け、少女向け、大人向けの雑誌の挿絵のほか日本画、水彩画、油彩画と多彩な作品を発表しています。
上の絵は、子供向け雑誌にクリスマスの様子を描いたもの。
こちらは、当時女性向けの雑誌「婦人グラフ」の表紙。うさぎを抱く女性、さりげなく描かれたテーブルの上のコーヒーカップも目を引きます。
こちらも雑誌「女学世界」の口絵、窓辺の風景を眺める女性の後姿を描いています。
金沢湯涌夢二館 川瀬千尋学芸員
「夢二式の美人画というと今のおそらくアイドルの写真集みたいな感じで。当時の若い男性にとっては夢二式の絵が載っていたら、その雑誌を買う。当時の若い女性にとっては夢二式の絵が載っていたら、その絵の仕草を真似したいとかそんなふうになりたいっていう風に。それもやっぱり女性雑誌のグラビア写真みたいな感じで、何か憧れの存在と思われていたようです。」
「金沢の奥座敷・湯涌温泉」、夢二との縁
夢二は、生涯3人の女性と深いつながりを持ちます。人生で唯一、戸籍上の妻となった「岸たまき」は金沢市出身、2人目の笠井彦乃は、最愛の人と言われ、たまきとの間に生まれた次男・不二彦の療養を兼ねて、湯涌温泉へ逗留します。金沢との縁の原点です。
夢二は逗留中、彦乃と愛情を深めつつ、日々、湯涌の素朴な自然と地域に生きる人々の姿をスケッチしたと言います。
3週間と短い期間でしたが、滞在中も作品を残しています。その縁で、2000年湯涌温泉に金沢湯涌夢二館が建設されました。
最愛の人と呼ばれた彦乃は、その後結核を患い、帰らぬ人となりました。
彦乃との愛の証に作ったプラチナの指輪
彦乃の死に深いショックを覚えた夢二は、プラチナの指輪を作ります。
その内側には、「ゆめ35 しの25」と彫られています。
「ゆめ」は夢二、「しの」は、夢二がつけた彦乃の愛称。
25は、彦乃の享年。35は、結核治療のため、夢二と彦乃が強制的に別れさせられた時の夢二の年齢です。
彦乃には、元々結婚を約束した相手がいました。夢二と出会いは、道ならぬ恋だったのです。当然ながら彦乃の父は、夢二との同棲に激しく怒り、結核治療のため別れさせられた際、夢二は階段から突き落されたという話が残っています。
残された指輪から、夢二が、彦乃に注いだ愛情の深さが垣間見えます。
最愛の人と言われた彦乃との湯涌温泉での思い出は、生涯忘れられないものといわれ、作品にも大きな影響を与えました。
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