1950年4月6日。特攻隊長・幕田稔大尉は生涯最後の朝を迎えた。石垣島を空襲していたグラマン機の搭乗員を殺害し、敗戦後にBC級戦犯として囚われて3年余り。スガモプリズンでの死刑執行は、深夜0時半と告げられている。31歳、独身の幕田大尉は家族への遺書を書き出したー。
◆最後の朝、床の中で煙草をくゆらせ
幕田稔大尉の遺書は、1953年刊行の「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会)に収録されているが、長文だったためか家族に向けた遺書は割愛されている。「刀剣と歴史」(昭和57年11月号)刀菊山人<なまくら剣談(三十)>によると、幕田大尉が処刑を言い渡されてから綴った遺稿は、「漫談」と「昨日今日の日記」と題する二篇があり、「漫談」は「世紀の遺書」に掲載されたもののようだ。そして、「刀剣と歴史」では、家族に向けた「昨日今日の日記」を紹介している。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)>※現代風に書き換えた箇所あり
稔は、今朝は五時少し前、目をさまし、今日は煙草はいくらでも吸えるのだから早速、煙草を床の中でくゆらし、復員した時、母上が私の為に買っておいてくれた甘い煙草を毎朝床の中でふかした事などを連想していました。
昨夜は全くよくねむりました。夜半にちょっと目を醒し、ぼんやりしている時思いついた短歌を書き留めて、またぐっすり今朝まで熟睡しました。下手なその時の短歌を紹介します。
◆「わが最後の夜とも知らず」母を思い歌作
スガモプリズンでは短歌を詠むことが盛んに行われ、部屋を訪ねての歌会もあった。幕田稔大尉も多くの歌を遺しているが、これが遺書に書かれた最後に詠んだ歌だ。
<幕田稔の歌>※「世紀の遺書」より
網越しに今日見し母の額なる深き皺々(しはじは)眼はなれず
老母(おいはは)のかけし前歯が悲しけれ最後(つい)の別れと今に思へば
吾が最後(つい)の夜とも知らず陸奥(みちのく)に帰りつつあらむ老母思ふ
夜半にめざめ思ひ浮べる母の歌ついのかたみと書き留めにけり
◆春雨にけぶる最後の日
戦犯死刑囚が処刑の朝、最後に見た景色。1950年4月6日。幕田大尉はスガモプリズンの窓から塀の向こうへ目を向け、ゆったりと景色を描写している。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)>
今朝は全く私の最后の朝にふさわしく気持よくめざめ、ちょっと家に帰って寝ていた様な錯覚を起していました。それから窓をあけて、娑婆をみてやろうとしましたところ、柔かな、暖かな春の雨がけぶっています。今日の夜半は月が出てくれればよいと考えていましたが、春雨もなかなか風情があるもの、場所柄に似ず、何だかなまめかしい感じなどがして可笑しなものです。まあ、月もよし春雨もよいでしょう。
向うの高い煙突から煙が静かに春雨の中に流れています。合羽を着て自転車に乗った人が塀の外のこみ合ったバラックの角をまがってみえなくなりました。右手の方に何やら銀行のコンクリートの建物が見えます。ねむくなる様なうっとりとする春雨の景色をながめ終って簡単に朝食をすまし、最后の今日だけは、私の朝のお勤めの後一時間ばかりの座禅をやめてこれを書いているわけです。
堅苦しい事を書くのは全く苦手であり、難しい事も知りませんから思いついた事をありのままに書き留めてみるつもりです。順序もありません。
◆死刑執行言い渡し 直前に帰った母
幕田稔の母・トメは、この前の日、山形からはるばる巣鴨へ面会に訪れていた。半年ぶりの訪問だったという。久しぶりに見た母の額には深い皺が刻まれ、前歯が欠けていた。夜になって死刑の執行を告げられた幕田大尉は、母の様子を思い出して詠んだ歌を夜中に書き留めて、遺書に織り込んだ。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)>
昨日は偶然の幸運か、仏の知らせか、半年ぶりで母上に会って本当によかったと考えています。大体、覚悟という覚悟はしていませんでしたが、どうも近い中に処刑があるかも知れないとは考えていました。昨日会った時は実の所もう一度ぐらい会えるかも知れないなど考えていたわけです。まさか昨日の晩、言渡しがあるとはあの時知らなかったもので極めて朗らかな気持ちで会えて本望です。
この前、風邪を引いて寝ていると、○子さんから手紙が来たので心配していましたが、会ってみるとやや肥っ顔にやや安心しました。ただ額の皺が急に目に立ったのと、前歯が欠けていたのとが、少し年寄りになった様な印象を私に与え、家の将来を考えるとちょっとじっとしておれない焦燥を感じました。
◆死刑告げられるまで読書で過ごした
幕田大尉は読書好きで、図書係も務めていた。スガモプリズン在所者の歌を選んでまとめられた「歌集巣鴨」には、
最后(つひ)の日まで図書の整理を續くるはわれに残されし幸福とぞ思ふ
という歌も遺されている。幕田大尉は処刑を言い渡されるその日も本を読んでいた。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)>
午後は曇りで気分がパットしなかったもので午後中、大仏次郎の「鞍馬の火祭」の痛快な、肩の凝らない小説を読んでおりました。夜はとばしとばし読んでいた「正法眼蔵」を読もうかと思いましたが、便秘のため頭がはっきりせず、尾崎士郎の「人間形成」なる、これまた肩の凝らない短編集を読んでいました。
◆月曜からおかしな気配
国立公文書館の石垣島事件のファイルにあった資料によると、死刑執行の指示が出されたのは4月3日月曜日だった。スガモプリズンでは約5ヶ月ぶりの死刑執行。しかも7人同時にという大量執行に所内の空気も変わっていた。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)>
月曜頃から気配がおかしいと感じていたのですが、昨日もいつまで経ってもいつもの様に訪問(注・夕食後の死刑囚同士の部屋の訪問)がないのでおかしいと思っていると「準備が出来たか」など言って来たので「さては」と思い、直ぐ僅かばかりの遺品と寝具を毛布にくるみ、たちまち準備定る。
まず一本残っていた煙草を吸い、佐藤さん(同室の佐藤吉直大佐)と名残の言葉を一言、二言交す。初め「さては」と思った時、ちょっと「あっ」と思ったが、たちまち気持ちが落着いたのは、吾ながらうれしかった。後に何の事はない、来るべき所に来たという安堵感を覚えるだけ。二年間の同友に順次に挨拶し、清水君と伊勢君に煙草をつけて口にくわえさせてもらったのは有難かった。
皆さん悲惨な顔をして送ってくれたが、かえって私が恐縮する思いであった。言渡式を待っていた時の心境は別紙の通り(注・「世紀の遺書」に収録された遺書)、井上(勝太郎)君や田口君と談笑。少しも深刻な感じがしないのには私自身いささか気脱けした。随分横着になったものだと吾ながら少しあきれ気味。てんで死ぬ様な実感が湧いて来ない。今も少しもその心境に変りはない。死ぬまでこのままである事が理の当然として、そのまま今の私には信じられる。
まだ31歳。死ぬという実感がないまま、幕田大尉は家族へ言葉を託していくー。
(エピソード65に続く)
*本エピソードは第64話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3 「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6 「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11 「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26 「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27 「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28 「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31 「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32 「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33 「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34 「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35 「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37 「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39 「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40 「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41 「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42 「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43 「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44 「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46 「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの
#55 特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ
#56 証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」
#57 証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも
#58 獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐
#59 特攻隊長は“悟り”をひらいた 死刑囚の棟での信仰「人間は宇宙そのものだ」
#60 特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ
#61 死刑執行が決まった日「元気でゆけよ」「さよなら」特攻隊長はとぼけた顔をして
#62 特攻隊長の遺書「原爆で死せる人間を生かしてくれたら喜んで署名しよう」死刑執行前夜
#63 夜には死刑執行「この俺を殺さんとするのは空気を棒でたたく様なもの」不屈の特攻隊長
#64 死刑目前 特攻隊長の歌「わが最後の夜とも知らず 帰りつつあらむ老母思ふ」
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
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