2024年のノーベル平和賞に日本被団協=原水爆被害者団体協議会が選ばれました。

日本被団協の代表委員も務めていた金沢大学名誉教授の故岩佐幹三さん。

「原爆の記憶を残す」「被爆者の記憶を継承する」

2020年9月に91歳で生涯を閉じるまで、岩佐さんはその気持ちを持ち続けてきました。

被団協に大きなかかわりをもっていた岩佐さんの、生涯を通しての活動などを振り返ります。

岩佐幹三さん(2017年)

岩佐さんは、石川県内の被爆者支援の活動に力を尽くし、晩年は原爆にかかわる資料の収集や整理などを通し、記憶を残すことに心を砕いてきました。

岩佐さんのような人たちの思いを継承する取り組みは続いていますが、果たしてこの先も長く記憶は残していけるのか、大きな課題もいま浮き彫りになっています。

16歳の時広島で被爆 炎が迫る中家の下敷きになった母は般若心経を…

岩佐さんは16歳の時、広島市で被爆しました。爆心地からは1.2キロの距離でした。

岩佐幹三さん「小さい雲が1つ2つある程度。セミがミンミン鳴いていてね、うるさい、暑い朝で。東の方を向いて、小さな畑、半坪ぐらいの畑を見ていた。突然後頭部をバットでガーンと殴られるようなショックを受けてたたきつけられた。バットでたたきつけられたものだと思ったから立ち上がって逃げようとしたら、上からすごい力で押さえつけられて立ち上がれない。目の前を見ようとしたら真っ暗で見えない」

岩佐幹三さん(2005年)

家に目をやると、すでに潰れていました。

岩佐幹三さん「屋根も全部潰れて。向こうにあおむけに倒れていて目のあたりから血を出している母の姿が見えた。だけどこちらからはもう行けない。家に火が燃えていったので。別れを告げたら、母があきらめたのか自分の死を悟って般若心経を唱えだした。戦争中のことなので、いつやられるかはわからないという気持ちはあったろうけど、家の下敷きになって火が燃えてきてじりじりと体が焼けていく。その中に死んでいったと思えば、もうたまらない気持ち」

母は亡くなり、爆心地の近くにいたという12歳の妹とはとうとう会うことができませんでした。

「僕はおふくろを殺しちゃったんだ」 ぬぐえない思いを語り続ける

原爆投下により母を亡くした岩佐さんは、自らの体験を語るときこのような言葉を使っていました。

「僕はおふくろを殺しちゃったんだ」

もうちょっと自分ががんばっていればどうにかなったのではないか、その思いがぬぐえなかったといいます。

「原爆はこんなに怖いものなんだ。語るときには表面的なことではだめだ」と周囲に語っていた岩佐さん。

1953年に金沢大学で助手になり、その後法学部の教授を務める傍ら1960年には石川県原爆被災者友の会を立ち上げました。

石川県内の被爆者支援に尽力した岩佐幹三さん(1982年)

1994年に金沢大学を退官してからは千葉県に移り住み、日本被団協の代表委員などを務めてきました。

「被爆者の記憶を残す」 晩年も精力的に活動

岩佐さんが晩年続けてきたのが「被爆者の記憶」を後世に残す活動です。

2011年にNPO法人として設立された「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の代表理事を務めていた岩佐さんですが、原爆にかかわる資料の収集や整理などにあたってきました。

資料を整理する岩佐さん(2017年)

保管していたものの中には、岩佐さんが国連の会議で関わった資料も含まれていました。

岩佐幹三さん「これは僕の字だよ。最後はみんなで直したんだよ。1982年第2回国連軍縮特別総会。その演説の原稿、第2稿」

岩佐さんが書いた原稿

この当時は88歳。それまで皮膚がんや前立腺がんなどに侵されながらも、「被爆者として生きてきた役割、使命感は捨て去ることはできない」と、自らを奮い立たせていました。

岩佐幹三さん「被爆者が考えていることを福音として、人類の福音として願いをまとめること。福音ってのは、話すときに『ただこうだ』じゃなくて、ほかの人みなさんに希望と一緒に歩こうという考え方を提示しないとだめ」

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。