「子育ては『親から受けた愛情の答え合わせ』と言いますが、私の場合それができる材料がないんです。だから、自分の子どもと一緒にもう一回子どもをやり直す…そんな感覚です。イライラしたり、フラッシュバックすることもあるんですけどね」親から壮絶な虐待を受けて育った女性は今、3人の子どもを育てながらフリーランスの保育士として働いています。自分の様な思いをする子どもが1人でも減って欲しい。子どもと親のサポートを続ける女性の過去の傷と今の思い。

親からの虐待

西有希さん、34歳。長崎市で3人の子どもを育てながら、フリーランスの保育士として子どもの見守り、産前産後のサポート、病児保育などの依頼を受けています。小学生を筆頭に3人の子どもと夫の5人暮らし。

出身は本州の西に浮かぶ島、長崎県新上五島町で、両親と4歳上の兄との4人家族でした。幼少期の思い出は父親から受けた暴力で埋め尽くされています。

西有希さん:
「布団にぐるぐる巻きにされて押し入れに投げられたのが一番古い記憶です。何年生とか何歳とか記憶はないんですけど…。他にはお小遣いが貰えなくて、お母さんの財布から100円とったことがあって、父から『きつい躾』という形でライターで手を焼かれたり、それでも収まらずに包丁を突き付けられたことを覚えています」

父親からの暴力は日常的で、母親も兄もその対象でした。

西さん:
「やんちゃだった兄は骨折をする程殴られていました。母は止める時もあれば、一緒に父から暴力を振るわれることもあって…。正直私の中で記憶が飛んでいます。母は私たちを守ってくれていたかもしれないけど、寂しかったという記憶が強く残っています」

昨年度、長崎県の児童相談所が対応した児童虐待相談対応件数は、過去最多を更新して1261件。主たる虐待者の9割は実の両親、被虐待児の42%が未就学児でした。

書き換えられた願書

西さんは中学校に入ると部活の剣道に打ち込み、中総体で準優勝を果たします。その実績もあり、島外の高校に進路が決まりかけていました。しかしー

西さん:
「進路が決まりそうになった時に、親が勝手に願書を書き換えて出していたんです…。『なんのために(島外の高校に)行くんだ』とか言われて。兄は行きたいところ(島外)に行かせてもらっていたから、自分もその感じで行けると思っていました」

Q島外の高校に行けば、家から出られるという思いも?
「ありました。それが一番大きかったかもしれないですね」

母親は子どもを置いて出ていった

島内の高校へ進学した西さん。高校生活はそれまで以上につらい時間の始まりでした。

西さん:
「高1の途中で母が家出したんです。兄も高校から島外に出ていたので、父と二人暮らしになりました。2人で暮らしていたから…、『地獄』でした。逃げ場所も無いし、父の食事も作らなくてはいけないし。家政婦、奴隷みたい」

死にやがれ…父は私を車から突き落とした

「島はバス通学とかじゃなくて、自家用車通学なんです。父に送り迎えを頼まないといけない…。父との生活のストレスのせいか、病弱でよく熱を出していたんですが『なんでそんな熱ばかり出すんだ』と言われて。好きで出しているわけじゃないからどうしたらいいか分からずに初めて反発しました。『どうしたらいいか分からん』と言ったら、『そんなのも分からんのか。今すぐ死にやがれ』と言われて、運転しながらシートベルトを外され投げ捨てられました」

「私は運動神経がよかったので、走っている車から突き落とされても、受け身をとれたんです。『二度と帰ってきません』と言って、家を出て行きました。人生で初めて『死んでやる』と思った…。家出した母親に初めて電話して『死ねと言われた』って伝えました。母は助けに来てくれました。あまりにも辛くて、記憶が曖昧なんですけど」

大学進学で島外へ 初めて知った家庭の温もり

短大進学でようやく島外へー保育を学び、毎日剣道をして、アルバイトもして、「楽しくて仕方なかった」と言います。そして西さんは初めて「普通」の暮らし、「普通」の家庭に接しました。

西さん:
「友達の家に行って、家庭のぬくもりに触れる機会が増えたんです。もう育ってきた環境とのギャップが大きすぎて…。カルチャーショック。『家庭ってこんなにあたたかいんだ』って」

友人の家族は西さんを「よく泊まりに来たね」と迎えてくれました。家族一緒に囲む食卓、初めて知った温もり。「家族団らん」が西さんの憧れになりました。

フラッシュバックと壮絶なうつ

西さんは短大卒業後、児童養護施設で働く道を選びました。自分の様な境遇にある子どもの助けになりたいと思ったからです。でも、間もなく幼少期の虐待の記憶がフラッシュバックとなって西さんを襲います。父親からの暴力、殺されそうになったあの日、母親から見捨てられた小さな自分。

追い込まれた末に児童養護施設の仕事を辞め、医療事務の仕事に就きました。そして短大時代に知り合った男性と結婚、穏やかな生活を送っていましたが2人目を出産した後、今度は産後うつに苦しむことになったのです。

西さん:
「2人目は寝なかったんですよ。とにかく夜通し泣いて、寝たと思っても15分しか寝ない。慢性不眠。さらに次々に感染症にかかって、2回入退院を繰り返して…。」「1人目もまだ小さかったので辛かった。(2人目の)この子が死ぬのが先か、自分が死ぬのが先か考えたり。これはちょっとやばいなと思って、初めてSOSを出しました」

「一緒にいることだけが愛情じゃないでしょ」

助けを求めた先は、1人目の子どもが通っていた保育園でした。人を頼ることが極度に苦手だった西さんが、夫以外に初めて出したSOS。保育園は行政機関につないでくれて保健師の訪問などを受けました。さらにー

西さん:
「『育休半年ぐらいで仕事復帰しようと思っています』と伝えると、園長先生に『何言っているの。今すぐ預けなさい』と言われました。『一緒にいることだけが愛情じゃないでしょ』とも言われて。子どもを預けて昼間に寝なさいって言って下さったんです」

2人の子どもを保育園に預けると、体調は順調に回復していきました。誰かに頼ることが、自分のためにも、家族のためにも、いかに大切かー。絶望のトンネルの中にさした光、大きな気づきでした。

そして西さんは、産前産後の女性に寄り添う家事代行や子どもの見守りなど、家庭に入ってサポートする仕事を始めるようになりました。西さんは「一人で悩まないで」と呼びかけ続けます。

西さん:
「生きていたら、子育てしていたら、悩みは尽きないけど、絶対に手を差し伸べてくれる人はいる。子どもが助けてくれる瞬間もたくさんある。一人で悩まずに相談してみて欲しい。私の目標は『まち全体で子育てする』。悩まなくていいよって伝えたいです」

インタビューが終わったのは、午後5時過ぎ。そこから家族揃っての夕飯づくりが始まりました。幼い頃の西さんが触れることのできなかった温もり、あの日憧れた「家族団らん」がそこにはありました。

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