1950年4月5日。石垣島事件7人の死刑執行が決まり、7人は死刑囚の棟から別の棟へ移された。7人の別れの様子を日記に残していた人がいた。福岡出身の冬至堅太郎。西部軍の事件で死刑囚の棟にいた冬至は歌の会や図書係などで、それぞれと交流があった。幕田稔大尉との別れの会話、そして教誨師を通じて幕田から冬至へ伝えられた言葉はー。

◆朝から執行の匂い

冬至堅太郎

BC級戦犯を裁いた横浜裁判では、米軍機搭乗員3人を殺害した石垣島事件に対して、41人に死刑が宣告された。その後、再審によって34人が減刑となって、7人だけが死刑囚の棟に残されていた。

冬至堅太郎は西部軍の元主計大尉で東京商科大学(現・一橋大学)の出身。当時35歳で幕田稔大尉より5歳ほど年上だった。九大生体解剖事件ではなく、油山事件という米軍機搭乗員の斬首事件で実行役として戦犯死刑囚となっていた。

冬至によると、4月5日は「朝から執行の匂いがしていて、7人はその用意をしていたそうであるが私達は全く気がつかなかった」という。虫の知らせというものか。

死刑囚を連れ出す時には、大勢の米軍将校や下士官兵がやってくる。部屋の前にきて、初めて連行されるのが誰かがわかるという。最初に姿を見せたのは石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐で、冬至はそれで石垣島事件の執行だと知った。

◆旅立つ7人 淡々と

石垣島事件の法廷 右端の半分顔が切れているのが幕田大尉(米国立公文書館所蔵)

井上乙彦大佐、副長の井上勝太郎大尉、田口泰正少尉、成迫忠邦上等兵曹、藤中松雄一等兵曹、そして幕田稔大尉。最後は榎本宗応中尉と、冬至はそれぞれ言葉を交わし、見送った。7人は穏やかに去って行った。

<4月5日水 石垣島事件七人出発 冬至堅太郎の日記より>
○六人目は幕田君。とぼけた顔をして
M「よう行くからな」
T「元気でゆけよ」
M「うん」
T「さよなら」
M「あ、さよなら」


幕田大尉との別れは実にあっさりしたものだった。

7人の中には、「心の動揺が激しく、死刑執行の予感におびえて失禁すれほどだったので、いよいよ執行の日には取り乱すのではないかと皆から心配されている人」もいたが、この夜はまるで別人のように落ち着きはらい、微笑さえ浮かべながら最後の別れを告げたという。旅立つ人たちの表情は、平常と変わらなかった。

◆幕田大尉からの伝言

幕田大尉との別れの会話(冬至堅太郎の日記より)

冬至は日記以外にも、日記に書いた体験をまとめたものも残している。

「苦闘記」と題してスガモプリズン内で1952年8月に記した文章には、7人を見送った翌日、田嶋教誨師から五号棟(死刑囚の棟)を出て以後の7人の様子を聞いたことが書いてある。田嶋教誨師は幕田から冬至への伝言を預かっていた。

<冬至堅太郎「苦闘記」より>
(伝言は)幕田さんからで、私とは信仰についてかねて論じあっている問題があった。それは或る時幕田さんが座禅中、突然「自己即宇宙」と云うことを全身的な感激と共に感得し、それ以来悪夢からさめたように明るい気持になったと云うことからで、それが伝わる中に誇張され、
「幕田が悟りをひらいたそうだぞ」
「そんな馬鹿な話があるものか」
「いや本当かも知れない。とにかく、本人に聞いてみよう」
と云うようなことで次々に話を聞きに行く。ところが幕田さんはあれこれ説明を試みるがうまく云えない。


幕田大尉と同室だった佐藤吉直大佐も書いているように、幕田が「悟りをひらいた」ことは死刑囚たちの大きな関心事になっていた。

◆死刑囚の信仰 幕田の悟りに動揺

死刑を宣告される幕田大尉(米国立公文書館所蔵)

いつ執行されるともわからない死刑を目の前にして、信仰によって心の安らぎを得ようとする死刑囚たちにとって、悟りの境地に達することは憧れでもあっただろう。

冬至は具体的にどうすればそこへ到達できるのか、いろいろ聞いてみるのだが、幕田の答えは要領を得ない。

<冬至堅太郎「苦闘記」より>
「結局、自分で体験しなくてはわからない」
「それは一体どうすればいいんだ」
「とにかく、坐ることだ。お経は読んだり、むずかしい理屈を考えたりする必要はない。唯座禅だ。それより他はない」
と云うので今までの精進に疑問を抱いて迷うものも出て来ていた。

私も或る日幕田さんの体験を聞いたが、そのあとで尋ねた。
「それだけでいいのか」
我即宇宙という体験は尊い。自分の心身は亡びても世界は些かの変化もない。その流転しつつも不易の天地こそ即ち我―と云う浩然たる心境は得難いものだ。だがしかし所詮それは一つの空観に過ぎないのではないか。そこから再び現実の我に戻る何ものかがなくてはならない。現在の刻々を常に正しくあらしめる導きの光がさして来なければ、単なる妄想に終わりはしないかと私は問うのだ。

◆やはり私の考えが正しい

<冬至堅太郎「苦闘記」より>
これに対し幕田さんは、現実生活に対する示唆は何らそこから得られないがそれでいい。否そのようなものは必要なく、したい放題のことをしてよい。そこに善悪の差はないのだと主張するのだった。

この問答は未解決のままになっていたが、それについて最後の言葉が送られて来たのだ。
「最後になってやはり私の考えが正しいことがわかった」
伝言は極めて簡単で、何故正しいとわかったかの説明は何もない。恐らく問い返しても幕田さんは答えられなかっただろう。

◆見送った死刑囚の仲間を思い

戦犯たちの遺稿を集めた「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会 1953年)

冬至堅太郎は3ヶ月後、減刑されて終身刑となるのだが、石垣島事件の7人まで、あわせて26人の死刑囚を見送っている。それぞれの人との思い出があり、幕田大尉についても、交わした言葉を思い起こして、心の中で何度も噛みしめたようだ。幕田が到達した「悟り」について冬至は自分なりの解釈で結論を出した。

<冬至堅太郎「苦闘記」より>
私は今になって幕田さんは因果の理法と即一になり、そこには悪の入りこむ隙もなく、自在の境にあったと思う。しかし私にはまた私の道があるのだ。それは二つのものではなく、一つの真理が、境遇も性格も、更に死への距離も違った幕田さんと私には、異なった現れ方をするのだと思うのである。


のちに、冬至堅太郎は石垣島事件7人を含めた戦犯、約700人分の遺稿をまとめた「世紀の遺書」の発起人となり、編纂委員も務めたー。
(エピソード62に続く)

*本エピソードは第61話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3 「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6 「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11 「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26 「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27 「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28 「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31 「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32 「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33 「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34 「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35 「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37 「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39 「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40 「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41 「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42 「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43 「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44 「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46 「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの
#55 特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ
#56 証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」
#57 証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも
#58 獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐
#59 特攻隊長は“悟り”をひらいた 死刑囚の棟での信仰「人間は宇宙そのものだ」
#60 特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ
#61 死刑執行が決まった日「元気でゆけよ」「さよなら」特攻隊長はとぼけた顔をして

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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